ジャズ・オルガンの第一人者ジミー・スミス。スミスは1950年代初頭にピアニストとして活動を始め、50年代半ばにハモンド・オルガン「専門」に転向します。そして独特な奏法で、それまでジャズでは脇役だったハモンド・オルガンをジャズの新楽器、それもとびきりソウルフルな主役楽器として生まれ変わらせました。1956年、スミスの演奏を聴いたブルーノート・レコードのオーナー・プロデューサーのアルフレッド・ライオンは即座に契約しました。ブルーノート・レコードではそれまでも数々のジャズ・ジャイアントがレコーディングしていますが、じつは専属契約を結んだのはスミスが初めてでした。それほどライオンはスミスに大きな可能性を見出したのです。


ジミー・スミス 『ア・ニュー・サウンド・ア・ニュー・スター』 (ブルーノート)
演奏:ジミー・スミス(オルガン)、ソーネル・シュワルツ(ギター)、ベイ・ベリー(ドラムス)
録音:1956年2月18日
持続音が特徴のオルガンを短い音符でパーカッシヴに演奏すること、また、左手でベース・ラインを弾くことなど、ジャズ・オルガンの常識は、ほとんどがジミー・スミスによって作られたといっていいでしょう。電気楽器なので大きな音が出ることも、他のジャズ楽器にはない特徴です。

1956年にスミスはブルーノートに自身の最初のアルバムを録音、発表しました。そのタイトルは 『ア・ニュー・サウンド・ア・ニュー・スター』 。同年中にさらに4枚のアルバムをリリースし、最初のアルバムからシングル・カットをリリースするなど、生真面目なイメージのブルーノートらしからぬ「ヒット狙い」を仕掛けていきます(そのように見えます)。思惑通りに売れたのでしょうか、翌57年にはなんと8枚という超ハイ・ペースが続きます。さて、このヒットはどれくらいのヒットだったのか。『ビルボード』誌のチャートを見てみましょう。同誌58年12月8日号には、ブルーノート・レコードが「It’s a hit!! It’s the grooviest!!」と書いたスミスの広告を出していたりするものの、その時期のチャートにスミスの名前は見当たりません。残念ながら、おそらく「ジャズの中ではヒット」というあたりだったのでしょう。ブルーノートはスミスのアルバムを出し続けましたが、しばらく状況は変わりませんでした。

そんな中、スミスに大手ヴァーヴ・レコードから移籍の声がかかります。『ジャズ超名盤研究2』(小川隆夫著/シンコーミュージック・エンタテイメント)に収載されている、著者によるライオンとスミスのインタヴューによれば、ライオンは「ブルーノートにも(制作規模の)限界はある。アーティストのチャンスを潰すことがあってはならない」といい、スミスは「ライオンは『ヴァーヴはメジャーだから、ギャラも上がるし、オーケストラとのレコーディングもできる』と、優しく送り出してくれた」(ともに大意)という、円満移籍が実現しました。じつにブルーノート、そしてライオンらしいエピソードであり、またジャズ・エピソード有数の美談ですね。


ジミー・スミス『バッシン』(ヴァーヴ)
演奏:ジミー・スミス(オルガン)、オリヴァー・ネルソン(編曲、指揮)オーケストラ
録音:1962年3月26、28日
アルフレッド・ライオンが語るように「(小規模カンパニーの)ブルーノートではできなかった」大型企画がいきなり実現しました。ヴァーヴの ヒット・メーカー・
プロデューサー 、クリード・テイラーらしいオーケストラとの共演アルバム。キャッチの「アンプリディクタブル」とは、「予測できない」の意味。

移籍第一弾の『バッシン』が、62年の3月に録音されていますので、移籍話はその年のはじめあたりだと思われますが、そこである「事件」が起こります。なんとその前年61年の11月にリリースされていたスミスの『ミッドナイト・スペシャル』がじわりじわりと売上げを伸ばし、62年3月に総合アルバム・チャート(当時は「150 Best Selling Monaural LP’s」。ステレオはまだ普及途上)で28位、61年12月リリースのタイトル曲のシングル・カットが「Hot100(総合シングル・チャート)」の69位という「ヒット」になったのです。ブルーノートにとって、これは両チャートとも初のランクインなのでした。ライオンがこれまで大切に育ててきたスミスが、手を離れたとたんに「ヒット」なのですから、皮肉なことといわざるを得ません。

そしてその勢いも受けて、62年4月リリースの、ヴァーヴからの初シングル「ウォーク・オン・ザ・ワイルド・サイド」が6月に「Hot100」の21位、移籍初アルバム『バッシン』は8月に11位という「大ヒット」を記録しました。これによりスミスはジャズの枠を超えたメジャー・アーティストの仲間入りを果たしました。その後もヴァーヴのスミスはスター街道まっしぐら。63年8月『ホーボー・フラッツ』が18位、同年12月『エニイ・ナンバー・キャン・ウィン』が25位、64年6月『ヴァージニア・ウルフなんか怖くない』が16位、64年12月『ザ・キャット』が12位と、大ヒットを連発します(いずれも日付は最高位の月。以下同)。


ジミー・スミス『ザ・キャット』(ヴァーヴ)
演奏:ジミー・スミス(オルガン)、ラロ・シフリン(編曲、指揮)オーケストラ
録音:1964年4月27-29日
アルバム・チャートで12位を記録したジミー・スミス最大のヒット・アルバム。この64年12月12日付チャートは、ビーチ・ボーイズ、エルヴィス・プレスリー、ビートルズがスミスの上にいて、ピーター・ポール&マリー、ヴェンチャーズが下にいます。なお同日号にはブルーノートの『プレイヤー・ミーティン』の広告が出ています。

さて、ライオンは喜んだのか悲しんだのか? ……私の見立てとしては「大喜び」。スミスの成功を喜んだ、というのはもちろんですが、その理由は「チャート」にあります。

スミスはブルーノートでたくさんのアルバムをリリースしていましたが、まだまだ多くの未発表音源を残していました。また、(おそらく)移籍決定後の62年2月にも契約が残っていたのでしょう、さらにアルバム2枚分を録音してブルーノートを離れました(いったい何枚作る契約だったのか)。そして、ライオンはそれらを少しずつリリースしていったのです。その結果は……なんと軒並みヒット。63年3月『バック・アット・ザ・チキン・シャック』が、シングルが14位でアルバム63位、同年11月『ロッキン・ザ・ボート』が64位、64年10月『プレイヤー・ミーティン』が86位などなど、ヴァーヴの(メジャーの宣伝力もあっての)大ヒット・アルバムの隙間で、ブルーノートの「新作」もしっかりとヒットしていたのです。ブルーノートだけの力だったら、果たして『ミッドナイト・スペシャル』以降、ヒット・メーカーの地位を維持できたかどうか。ミュージシャンとプロデューサーの音楽的な「美談」は、結果的に「ジャズ・ビジネスの成功談」にもなったのでした。

文/池上信次
フリーランス編集者・ライター。専門はジャズ。ライターとしては、電子書籍『サブスクで学ぶジャズ史』をシリーズ刊行中(小学館スクウェア/https://shogakukan-square.jp/studio/jazz)。編集者としては『後藤雅洋著/一生モノのジャズ・ヴォーカル名盤500』(小学館新書)、『ダン・ウーレット著 丸山京子訳/「最高の音」を探して ロン・カーターのジャズと人生』『小川隆夫著/マイルス・デイヴィス大事典』(ともにシンコーミュージック・エンタテイメント)などを手がける。また、鎌倉エフエムのジャズ番組「世界はジャズを求めてる」で、月1回パーソナリティを務めている。

 

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