ドナルド・キーンさんが亡くなって、間もなく5年。かつて父と一緒に摂った朝食が、今も多忙な三味線奏者の健康源だ。
【キーン誠己(せいき)さんの定番・朝めし自慢】
人形浄瑠璃は太夫(語り手)、三味線、人形遣いの3人によって演じられる人形芝居だが、浄瑠璃三味線演奏者のキーン誠己さんは、語りと三味線の両方を担う。いわゆる弾き語りである。
人形浄瑠璃(文楽)との出会いは学生時代。新潟に生まれ、東京外国語大学フランス語学科に進学するも、大学紛争中で講義はない。
「ある日、国立劇場で文楽を観たのです。四世竹本越路太夫さんの舞台でしたが、私は情景や人物の心情を語るように弾く三味線に強く惹かれました」
国立劇場文楽研究生第一期生となり、2年の研修を経て、大学卒業と同時に初舞台。だが、仕事は激務だった。25年の舞台活動の後、健康を害して帰郷。家業の造り酒屋を手伝いながら、弾き語りによる義太夫の演奏活動を続ける。
そんな時に出会ったのが、佐渡に伝わる古浄瑠璃だった。その知識を得たくて、日本文学や日本の古典芸能の魅力を世界に広める、日本文学研究者のドナルド・キーンさんを訪ねる。誠己さん、50代半ばのことである。
誠己さんの浄瑠璃を愛する心、熱い思いがキーンさんに伝わったのであろう。ふたりの距離は日に日に縮まり、東日本大震災後に寝食を共にするようになる。そして2012年3月、誠己さんはキーンさんの養子となったのである。
朝のパパイヤ
養父・キーンさんは2019年2月24日、日本人として最期を迎えた。96歳であった。父亡き後も、誠己さんは父が元気だった頃の朝食を受け継いでいるという。
それがアメリカ・ニューヨークの老舗スーパーマーケット『ゼイバーズ』のコーヒーに、パパイヤ、クロワッサンという献立だ。
「『ゼイバーズ』のコーヒーは日本では入手できませんが、ニューヨークに行くたびに買ってきます」
キーンさん宛ての手紙──例えば川端康成や谷崎潤一郎といった作家や、東山魁夷ら画家からのもの1000通余りをコロンビア大学に寄贈しているので、定期的にニューヨークを訪れるからだ。
果物はパパイヤがない時はメロンや葡萄、洋梨などに替わることもある。キーンさんは柿も大好物だったという。
公私にわたる父の足跡、業績を正しく後世に伝えていきたい
昨秋、誠己さんは父の助言で始めた古浄瑠璃、『弘知法印御伝記』を英語歌舞伎で上演。今年はキーンさんと三島由紀夫が知り合って70年になることから、それを記念して三島作の狂言を演じる企画もある。それらの舞台活動と並行して、講演でも東奔西走する。
「2020年にドナルド・キーン記念財団を設立し、父が常々いっていた“僕は日本文学や日本文化の伝道師”という活動を継承したいと思っています」
その具体例が全国各地で開いている講演会だ。
「父の足跡や業績を辿り、広く深い精神世界、知的世界を見つめ、正しく後世に伝えていくことが私の責務だと心得ています」
キーンさんはまた、最晩年まで45年にわたって暮らした東京・北区が大好きだった。近所の商店街で買い物をし、週に一度は“厨房の人”となって、誠己さんや友人らに振る舞った。得意料理の多くは『ニューヨークタイムズ』のクックブックから選んだものだったが、それらは北区のキーンファンにより再現されている。
※この記事は『サライ』本誌2024年2月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。 ( 取材・文/出井邦子 撮影/馬場 隆 写真協力/風間忠雄 松山市立子規記念博物館 北区滝野川文化センター)