西郷隆盛(1827~1877)といえば、東京では上野公園(台東区)に建つ銅像がつとに有名だが、じつは日本橋も、西郷ゆかりの地だ。
明治維新の立役者のひとりだった西郷は、明治政府発足後、故郷の鹿児島で暮らしていた。しかし、政府に請われて明治4年(1871)に上京。居を構えたのが日本橋だった。
現在、日本橋小学校(中央区日本橋人形町1-1-17)などがある一帯が、西郷隆盛の屋敷跡だ。元は姫路藩の屋敷で、約2600坪もあったが、西郷は家族を鹿児島に残して単身赴任。15人ほどの書生を住まわせ、7人の使用人を雇って、数頭の猟犬を飼っていたという。
この頃、西郷が贔屓(ひいき)にしていた店のひとつが、日本橋にある『千疋屋総本店』(せんびきやそうほんてん)だ。同店は天保5年(1834)に創業。当初は野菜や果実を販売していたが、維新以後は果実の専門店となった。
西郷は店を訪れると、2代目主人の妻・むらに親しく声をかけ、大きな西瓜などを注文したという。西瓜はアフリカ原産で、日本に伝来した時期は定かではないが、江戸時代にはすでに栽培され、日本で最初に栽培されたのは鹿児島という説もある。西郷にとって、西瓜は懐かしい故郷の味だったのかもしれない。
政府において西郷は、日本最初の近代的学校制度を発足させるなど、重要政策の実現に尽力したが、朝鮮王朝との国交問題を巡って意見が対立。自ら朝鮮半島に赴き交渉を行なうという西郷の主張は退けられたため、明治6年(1873)に下野した。下野後、疋屋総本店を訪れた西郷は、むらに「屋敷をあげる」と冗談ともつかぬ話をしたという。
司馬遼太郎の小説『跳ぶが如く』には、下野して帰郷することにした西郷が、破格で払い下げられた屋敷を購入価格で売ろうとして、周囲を唖然とさせる場面が描かれている。西郷が日本橋に住まったのは僅か2年程だが、気さくで私利私欲のない西郷の人柄を偲ばせる街でもある。
文/諸井里見