豊臣秀吉が大坂城の築城を開始したのが、天正11年(1583)。「ソハキリ」初見より、9年の後だ。信濃国でそれだけ普及していた御馳走を、天下統一を目指して東奔西走し、おそらく誰よりも各地の情報を集めていたであろう秀吉は、本当に知らなかったのだろうか。当時は、兵糧攻めという戦術もあり、味方の援軍が到着するまで、草の根をかじっても持ちこたえなければならないという局面もあったはずだ。戦時にどのくらい食料を確保しておくかが、勝敗を左右した。食の情報は、戦略上、極めて重要な意味を持つものだ。それを秀吉が知らなかったというのは、少々無理があるのではないだろうか。

そして、東京の老舗蕎麦店『砂場』のルーツは大坂であり、大坂城築城の際の砂置き場に店があったことから「砂場」と呼ばれ、それが屋号になったことは、蕎麦好きの方ならご存知だろう。

この『砂場』の大坂における創業が、正確にいつであったのかが、実はよくわかっていない。しかし、寛永2年(1849)に発行された「二千年袖鑒(にせんねんそでかがみ)」という書物には、大坂の砂場で隆盛を誇った大店二軒のうちの一軒、「津国屋」の創業が、天正12年(1584)であると記されている。これは大坂城築城が始まった年の翌年である。建築資材を置く砂場近くに店が出来たのなら、納得できる時期だ。しかし「二千年袖鑒」が津国屋の創業よりかなり後年に書かれたものであることや、他の書物でこの記述を裏付ける記録が発見されていないため、津国屋の創業が本当にこの年であったのか、疑問視する人もいる。創業の年がいくらなんでも古過ぎるというのだ。

だが、京都に現存する老舗蕎麦屋『本家 尾張屋』は、当初、菓子司として開業したが、その創業年は寛正六年(1465)であるとされている。津国屋より百年以上前だ。その店が現在もまだ、人々に支持され、営業を続けている。津国屋にそれくらいの歴史があったとしても、不自然ではないだろう。

津国屋が天正12年に創業したという記述が事実ならば、秀吉が蕎麦切りを知らなかったという説は、成り立たなくなる。秀吉の時代に大坂城のお膝元で、人気蕎麦屋が繁盛していたことになるのだから。

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