『本朝食鑑』は、医と食の専門家である医師が書いた本草書で、内容は、庶民の日常食の薬効などの解説が中心だ。

本書によると、蕎麦切りを食べたあと、蕎麦湯を飲まないと病気になると、当時は信じられていたらしい。世間では、蕎麦切りをたくさん食べると、中風になると言われている。そして蕎麦切りを食べてから湯(風呂)に入れば、卒中で倒れたり、突然死すると思われている。しかし、予(わたし)は、これを疑う。病気になるかどうか、実際に試してみたが、そのようにはならなかった、と書いているのだ。

今でこそ、蕎麦を食べ過ぎても突然死するようなことはないとわかっているが、世間で皆がそう信じている時代に、実際に、それを試してみるということは、いわば自分の体を使った人体実験と同じで、かなり勇気のいることだったろう。わが子に天然痘の種痘を試したイギリスの医学者、エドワード・ジェンナーの偉業は、後世の語りぐさになっているが、自らの命を賭して蕎麦を腹いっぱい食べてみた『本朝食鑑』の著者、人見必大の功績は、あまり話題にされないのが少し気の毒だ。

そういうわけで蕎麦湯は昔から、よくわからない飲み物であったともいえる。

蕎麦猪口が手もとにひとつしかない状態で、底に辛汁が半分ほども残っているとき、「おまちどうさま、蕎麦湯です」と湯桶を持ってこられても、どうやって飲めばいいものなのか、よくわからない。蕎麦猪口にあふれるほどに蕎麦湯を注いでも、これではしょっぱくて飲めたものではない。

反対に、季節の香り豊かな食材を練り込んだ「さらしな蕎麦」をいただいたあと、ほのかに柚子の移り香などが立ちのぼる風雅な蕎麦湯を供されることもある。こういう店は、丁寧な仕事ぶりが蕎麦湯からうかがえて、なんだか嬉しい気分にさせられる。

一杯の蕎麦湯を飲めば、厨房の様子や、客の入り具合、店主の人柄、生き方まで見えてくる。不思議で楽しく、奥の深い飲み物、それが蕎麦湯である。

文・写真/片山虎之介
世界初の蕎麦専門のWebマガジン『蕎麦Web』編集長。蕎麦好きのカメラマンであり、ライター。著書に『真打ち登場! 霧下蕎麦』『正統の蕎麦屋』『不老長寿の ダッタン蕎麦』(小学館)『ダッタン蕎麦百科』(柴田書店)などがある。

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