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蕎麦屋に必ずといっていいほど用意されているワサビは、かつて「あの薬味」の代用だった。

蕎麦屋には、よくわからない謎がいっぱいある。僕はその謎の最たるものを七つ選び、「蕎麦屋の七不思議」と名付けている。前回、ワサビの話(詳しい記事を読む)を書いたところ、「ワサビについてもっと知りたい」という感想を頂戴した。そこで七不思議のひとつに数えているワサビの話をお届けしたい。

「なぜ、ワサビを蕎麦の薬味に使うのか」。あまりにも当たり前に使われているワサビなのに、じつはよくわからないのが、この問題だ。

ご存知のように現代では、蕎麦の薬味としてワサビは代表格といえる存在になっている。薬味皿にワサビの付かない蕎麦なんて「サビ抜き」の鮨みたいなもので、食べた気がしないという人もいる。

ちなみに僕は蕎麦を食べるとき、ワサビは通常使わない。薬味皿に乗せられたワサビは、店の人が食器を片付けるとき、もったいないけれど手つかずの状態で下げられていく。

べつにワサビが嫌いなわけではない。鮨は人並みにワサビの入った握りを食べるし、ワサビの効いたお茶漬けも大好きだ。ワサビのあの鼻に抜ける、清々(すがすが)しいとしか言いようのない香りは、素晴らしいと思う。

しかし、そう、問題は、その素晴らしい香りなのだ。

■答えはやはり古い文献にあった

蕎麦は香りを楽しむ食べ物。そこに蕎麦の本質があると僕は思っている。あの繊細な香りを漂わせる蕎麦に、清々しくも華やかなワサビの香りをぶつけたら、蕎麦の香りは負けてしまう。ワサビが主役になり、主客転倒してしまうのだ。

僕がワサビを蕎麦の薬味に使うのは、「悪いけどこの蕎麦、もう残したいなあ」と感じているときに、蕎麦を打ってくれた人が目の前でニコニコしながらこちらを見ていて、「やっぱり失礼だから、がんばって全部食べなくちゃ」という場合などに限られる。そういう状況下では、蕎麦の香りも味もわからなくするワサビは、頼もしいサポーターとなってくれる。

ずいぶん長い間、ワサビの謎は解けずにいたのだが、ある日、その解答が目の前にあらわれた。答えは前回と同じく、古い文献の中にあった。

蕎麦の記事を書くため、江戸時代の資料『蕎麦全書』を調べていたら、そこにワサビを薬味に使う理由がはっきりと記されていたのだ。

『蕎麦全書』は、江戸時代中期に書かれた文書で、江戸の蕎麦事情が詳細に記録されている。一冊に綴じられた本ではあるが、書かれた当時、出版されたものではない。これは日新舎友蕎子(にっしんしゃゆうきょうし)という蕎麦好きの人物が、個人的にいろいろ書いた原稿を綴じたもので、「稿本」と呼ばれる世界に一冊しかない本である。だから『蕎麦全書』についての注記は、「寛延四年(1751)に出版された『蕎麦全書』…」と書くと、間違いということになる。「出版された」ではなく「脱稿した」と書くのが適切なのだ。

■ワサビは辛い大根おろしの代用だった

この『蕎麦全書』、以前に何度か読んではいたのだが、その当時はまだワサビの謎についてあまり意識していなかったので、すらりと読み飛ばしてしまったのだろう。

問題の下りを要約すると、以下のようになる。

蕎麦の薬味は、大根おろしのしぼり汁が最も適している。十人中、八人から九人が、これを好む。薬味とする大根は、辛いものが好ましい。そして辛い大根がない場合、しぼり汁の代用としてワサビを使う、と解説されているのだ。

謎は霧散した。辛い大根おろしの代用というなら話はわかる。

蕎麦の薬味として大根おろしは最適なものだと、僕も思っている。大根に含まれる消化酵素が蕎麦のでんぷんの糖化を強力に促進し、蕎麦の味を甘く、美味しくするのだ。さらに、あのさっぱりした清々しさは、なるほどワサビの食後感に似ていないこともない。

現在、日本各地にその暖簾を見かける蕎麦店『一茶庵』の創始者、片倉康雄さんは、著書『片倉康雄 手打そばの技術』の中で、蕎麦の薬味は大根おろしが一番と推している。さらに、その糖化力を示す実験として、炊きたての御飯の釜の中に大根おろしを入れると、短時間で御飯はおかゆのようにドロドロに溶けることを紹介している。それほど大根おろしは、強い力を持っているのだ。

そんなわけで、ようやくワサビの不思議は解き明かされた。

それで「蕎麦屋の七不思議」が、六不思議になったかというと、そうはいかない。

蕎麦屋には、解けない謎が目白押しに並んでいて、ひとつが解決しても、すぐに次なる不思議が七番目の座に着いてしまうので、いつまでたっても七不思議は、数が減ることがないのだ。

文/片山虎之介
世界初の蕎麦専門のWebマガジン『蕎麦Web』編集長。蕎麦好きのカメラマンであり、ライター。サライで撮影と文を担当して記事 を制作。著書に『真打ち登場! 霧下蕎麦』『正統の蕎麦屋』『不老長寿の ダッタン蕎麦』(小学館)『ダッタン蕎麦百科』(柴田書店)などがある。

 

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