長野・松本市の名店『そばカフェ ぐりんでる』の「ひね蕎麦」。
新蕎麦がどっと出回ると、まだ店の保冷庫の奥に仕舞われている去年の古い蕎麦、いわゆる「ひねの蕎麦」は、ちょっと隅に追いやられた感がある。米でいえば、古米にあたる蕎麦だ。古いとか、ひねとかいう言葉は、誉め言葉として使われることはあまり多くない。
しかし、蕎麦好きの中には、この時期に新蕎麦ではなく、ひね蕎麦をあえて求める人もいる。「新蕎麦始めました」の張り紙のない、なじみの蕎麦店の暖簾を嬉しそうにくぐるのだ。
そして、こう注文する。
「盛り蕎麦一枚、お願いします」
その横では、後から入ってきた別の客が店主に問いかける。
「もう、新蕎麦になっているんですね?」
店主は、ちょっと言いにくそうに答える。
「いえ、うちは新蕎麦は、やってないです」
「あ、そうなの…?」
「すみません」
客は仕方なしに、メニューを見ながら蕎麦を選んで頼むのだが、表情には落胆の色が漂う。その問答を聞きながら、最初の客の顔には笑みが浮かぶのだ。
新蕎麦を使わないという蕎麦店は、数は少ないが各地にある。なぜ、新蕎麦を使わないのか。
その理由を店主は次のように言う。
「うちでは新蕎麦は、“もったいない”から出さないのです。収穫して間もない新蕎麦は、まだ若くて、香りは弱いし、味ものっていません。そんな状態で、せっかくの新蕎麦を使ってしまったら、本当にもったいない。2月か3月になると、香りも味もしっかり感じられるようになるので、そうなってからお客様に召し上がっていただきたいのです」
新蕎麦を、このように扱っている蕎麦店もあるのだ。栽培や収穫の状況により、すべての蕎麦がそうであるとはいえないが、収穫してから2〜3か月経ったころ、飛躍的においしくなる例も確かに見受けられるのだ。
新蕎麦を客に出してもいいと主人が判断するまで、この蕎麦店では去年のひね蕎麦を供するのだが、食べてみると、これがじつに旨い。新蕎麦の若々しい香りとは、少々おもむきを異にするが、蕎麦本来の穀物を感じさせる風味を豊かに備えた蕎麦に仕上がっている。
ひね蕎麦を目当てにしてきた最初の客は、運ばれてきた蕎麦を旨そうに食べ終わると、主人に聞く。
「おいしいねえ。いつごろまで、この蕎麦あるの?」
「3月くらいまでは大丈夫ですよ」
そう答える主人に、満足そうにうなずき、笑顔で席を立つのである。
今の時期、新蕎麦を供する店と、新蕎麦は出しませんという店と、両方の店をまわることができる。
実際に、これらの店を訪ねて、新蕎麦、ひね蕎麦、それぞれの魅力を味わってみれば、蕎麦の奥深さをまたひとつ感じることができるに違いない。
【そばカフェ ぐりんでる】
長野県松本市安曇3365-1
電話0263-94-2825
営業 11:00~15:00
水曜定休
文・写真/片山虎之介
世界初の蕎麦専門のWebマガジン『蕎麦Web』(http://sobaweb.com/)編集長。蕎麦好きのカメラマンであり、ライター。伝統食文化研究家。著書に『真打ち登場! 霧下蕎麦』『正統の蕎麦屋』『不老長寿の ダッタン蕎麦』(小学館)、『ダッタン蕎麦百科』(柴田書店)、『蕎麦屋の常識・非常識』(朝日新聞出版)などがある。