■ワイン生産者への道を決めた兄のあと押し
曽我さんは、長野県小布施町生まれ。生家の小布施ワイナリーを現在、継ぐのは兄の曽我彰彦さんだ。
「自分でドメーヌを立ち上げる前に将来、どうしようかと迷っていた時期がありました。実家に戻ってもいいし、馴染みのある実家近くの山梨や長野でドメーヌを起こしてもいい、と。でも兄から、実家に戻るのも、近くでドメーヌを立ち上げるのもやめてくれ、と言われた。父は、”なぜだ”と兄に言い、大喧嘩になったりもしていました。決して兄と仲が悪いわけではないんですよ。ただ兄は、”自分は我が強くて、そのうえ貴彦はもっと我が強い。一緒にやってうまくいくはずない。お前、北海道のぶどうがいいと言っていたじゃないか”、と」
それを聞いて正直、はじめはむっとしましたよ、と言いながら曽我さんは笑った。
「でも、確かによく考えてみればブルゴーニュのドメーヌでも、兄弟で喧嘩して畑を分割したりという問題はけっこう起きています。それに実家に戻ることが甘えだというのは、じつは心の奥底ではわかっていた。北海道のぶどうを手にするたびに驚きの連続で、それが素晴らしいのは明白でしたから。とはいえ、見知らぬ外国の地に行くような恐さもあった。でも、兄は”絶対にお前に後悔はさせない。そうしたほうがいい”と。それで、やはり北海道に賭けるべきだと決心がついたんです」
もし兄のあと押しがなければ現在、日本のトップ生産者のひとりであるドメーヌ・タカヒコは存在しなかったことになる。
その生家は、江戸末期から続く日本酒の蔵元である。戦時中に原料の米が手に入らず、一時期、日本酒造りが途絶えたとき、祖父が果実酒の免許を取得した。後を継いだ曽我さんの父は林檎や食用ぶどうの巨峰などでワインを造り続けた。
「父は父で、そのワインに誇りを持っていたと思います。兄は跡を継いだから、日本酒とワインに関わる両方の従業員を背負い、職人でありながら企業の社長という立場で仕事をし続けている。一方で僕は基本的にひとりです。社長でも経営者でもないし、従業員のために生産量を上げる必要もない。コンサルタントもいらない。農家の延長線上で、自分と家族の幸せを考えてただ職人としてワインを造ればいい。今思えば、北海道は自分の目指すことが全部できる地でした。兄には心から感謝しています」
幼い頃の遊び場は、醸造所や畑のなかだった。昆虫少年でもあり、学校から帰ればかぶと虫、それに小川に行ってタガメやメダカを獲っては遊んだ。
「植物も好きで、祖母の畑の手伝いもよくやっていました。植物を観察することは、当時から好きだったと思います」
高校で進路を決めるにあたり、父親から東京農業大学醸造学科を薦められる。曽我家は、男ばかりの3人兄弟。すでに長兄の彰彦さんは、ワイン生産者の道を選び、勉強を始めていた。
「兄がワインの道に進んだので、父は僕に日本酒造りを守って欲しかったのだと思います。微生物に興味があったから醸造学はいいかもしれないと思って、農大に進学しました。入学したのが91年です。当時は八海山とか、越の寒梅とかが人気だった。でも92~93年頃になるとバブル崩壊の雰囲気が濃厚に漂い始めて、人々が日本酒から遠ざかるのが肌でわかった。当時はビールや缶酎ハイが売れていて。自分は本当に日本酒を造りたいのかと、迷いましたね」
ワインと邂逅したのも、その頃だった。当時、山梨大学醸造学科で勉強していた兄・彰彦さんは、「現代日本ワインの父」とも称される浅井昭吾さんの薫陶を受けていた。
浅井さんはメルシャン勝沼ワイナリーに勤務し、のちに山梨県ワイン酒造組合会長も務めた人物。それまで甲州など日本独自のぶどう品種が多かったワイン界に、欧州系品種を栽培するよう勧めた。なによりワインは畑で良質のぶどうを栽培することに尽きるというワイン造りの基礎を説いた人物だった。「麻井宇介」のペンネームで多くのワイン関連の著書も残している。
「フレンチパラドックスによるワインブームもあり、いままでとは違う本格的なワインブームが来たと肌で感じました。専攻する研究室を決めるとき、ちょうど山梨大学から農大に赴任してきた教授がいたこともあり、日本酒と迷いながらもワインについて学べるその新しい研究室に入りました。その頃から兄を通じて浅井先生などの話を聞き、ワインの世界へともっと深く引き込まれて行きました」
大学を卒業するとき、助手の席がひとつ空いているから、研究室で働かないかと教授に声をかけられた。8年間という恵まれた契約内容。大学を卒業したばかりだったので立場は副助手だったが、生徒に教え、給料面などは助手と同じ待遇だった。
しかし、その契約半ばの3年5か月で曽我さんは大学を退職することになる。
「ワインは発酵ではなく、ぶどうで品質が決まると兄などから、いつも聞いていたんです。でも当時の僕は、大学で酵母や乳酸菌の選抜や生成物の分析、酵母に圧力をかけたりなど化学的アプローチばかりしていた。そういう微生物の研究をしても、いいワインは造れないというのはすでにわかっていました。ここにいたらいかん、腐るな、と。当時、カリフォルニアのナパのワインが注目され始めた頃で、兄はフランスで修業したから、僕はカリフォルニアでも行こうかなと考えたりもした」
そして曽我さんは、ココ・ファームの醸造責任者、ブルース・ガットラヴさんと運命的な出逢いを果たす。
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