取材・文/鳥海美奈子
「ワイン造りは、農業としての芸術表現だ」
山梨県にあるドメーヌ・オヤマダの当主・小山田幸紀さんは、そう語った。
その勉強会は、毎年冬に開催される。初期メンバーはドメーヌ・タカヒコの曽我貴彦さん、農楽蔵の佐々木夫妻、Kondoヴィンヤードの近藤良介さん、小布施ワイナリーの曽我彰彦さん、Kidoワイナリーの城戸亜紀人さん、酒井ワイナリーの酒井一平さんたち。いずれも現在、日本ワインの先端に屹立する生産者である。
約15年前に勉強会が始まったばかりの頃、小山田さんはそこにある本を持参した。それが宮沢賢治の『農民芸術概論綱要』だった。朗読するのはいつも近藤良介さんの役割である。
「おれたちはみな農民である/ずゐぶん忙しく仕事もつらい/もっと明るく生き生きと生活する道を見付けたい/(略)曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた/そこには芸術も宗教もあった/いまわれらにはただ労働が/生存があるばかりである/宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い/ (略)いまやわれらは新たに正しき道を行き/われらの美をば創らねばならぬ/芸術をもてあの灰色の労働を燃せ/ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある」
農業は芸術を表現しうるものだという宮沢賢治の晴朗で、高らかな農業宣言。科学万能主義を否定し、農業は美と芸術、そして創造だと謳いあげる。
ときは、日本ワインの黎明期。そこに集う生産者は当時、誰もがまだ20代後半から30代前半だった。この誇り高い言葉と思想、あまりある熱情を胸に、未来への扉を押し開こうとしていた。
「あの頃、農業でなにかを表現していきたいと考えていた自分の心を捉えたのが、この本だったんです。読んだ瞬間、あ、これだと思えた。昔の農家は貧しくて学問をする状況になかったので、農業からは表現というものが生まれなかった。つねに搾取される側だったわけです。でも現在は農業に携わる人も大学に行くのがあたり前の時代だし、いくらでも勉強ができる。だから、今後は農家も自分の意見を持ち、そして芸術として表現していくんだ、と。自分の場合はそれがぶどう栽培、そしてワイン造りだと思えたんです」
勉強会では、自分のワインを持参するのも慣例だった。試飲は銘柄を隠した、ブラインドの形で行われる。
「まだ若かったし、みんなぎらぎらしていて、試行錯誤で右も左もわからない状態でした。テイスティングも初期のメンバーは、容赦なかったですね。“こんなもの飲めない”とか、“クソまずい”とか、平気で言ってましたから。社会人としての青春時代だったと思います。宮沢賢治の著作を朗読していたスピリチュアルな時期を経て、その後も、このメンバーのあいだにはさまざまなブームがあって。全員で一気に農薬をやめて、全員ぶどうが壊滅的になったり。でもいまはみなそれぞれの道を確立しているので、1年に1回、互いの安否確認に集まるといった感じですね」
そう言って、笑った。熟れた夏が、ようやく陰りを見せ始めた初秋の夕方。畑仕事を終えてカーヴに佇む小山田さんの日に焼けた顔は、生気を宿していた。矜持とともに農業を生業にする人のありようが、そこには具現化されていた。
小山田幸紀さんは1975年、福島県生まれ。父親が高校の国語の教師だったことから、読書には自然に親しむ環境にあった。
「ほとんど勉強をしないで、本ばかり読んでいる学生でした。高校生になると、思春期特有の精神的危機に苛まされて、そこから逃れるためにも読書を必要としたんです。自分と同じような世界が他者のなかにも広がっていると知ることで、なんとか生を繋いでいくという感じでした。村上春樹や芥川龍之介、それに太宰治の『人間失格』『斜陽』などを耽読して。その後はフランス文学やドイツ文学も好きになりました」
中央大学でドイツ文学を専攻していたときに醸造コンサルタントであり、“現代日本ワインの父”とも呼ばれる故・浅井昭吾氏と出逢い、感銘を受けた。
「普通に就職する気は全然なかったんですが、特にやりたいこともない状況で。ただドイツ文学専攻だったので、ヨーロッパへ遊びに行っているうちにワインには自然と興味を持ったんです。もともと極度の酒好きだったからソムリエスクールに通い始めて、そこで浅井さんの授業も受けました。その後はソムリエになってサービスの真似ごともしたけれど、そもそも人間嫌いなので接客業に向いてなくて。ワイン造りなら自己満足の世界でやっていけるだろうと思ったんです」
やがて山梨にあるワイナリー「ルミエール」に就職。ワイン造りを任され、その味わいの質の高さから「小山田幸紀」の名は、ソムリエやワイン愛好家に知られる存在になっていく。
「ぶどう栽培責任者でもあったので、農業の面白さにどっぷりとはまりました。当時は、どうしたら良質なぶどうを作れるかと、山ほど農業の実用書も読んだ。農薬も研究し尽くしました。でも、農薬により必ずしも安定したよいぶどう生産ができるわけではないと徐々にわかってきたんです。それなら必要ないのではないかと、農薬を使う一般的な農業のやり方に疑問を持ち始めます。そしてビオディナミ農法でワインを造る海外の生産者と触れ合ううちに、自分もできるのではないかと思うようになりました」
2002年、フランス・ロワール地方の生産者クロード・クルトワの『ラシーヌ』という銘柄のワインを飲み、ヨーロッパの農法であるビオディナミに興味を持つ。周囲からは反対意見もあった。しかし2004年、ビオディナミを開始。プレパラシオン(調合剤)も5年間撒いた。水晶の粉末や牛糞を水で希釈したものを撒くことでぶどうの樹や土壌が活性化したり、病気を予防できると考えられている。
「でもやがてビオディナミは日本の農業にはあわないのではないかと思うようになりました。ヨーロッパの乾燥農業地帯と、日本の湿潤な農業地帯では、気候風土も農業の歴史も、そして思想もまったく違います。ビオディナミ農法はヨーロッパではいいかもしれないけれど、その手法を山梨に持ってきても難しい、と感じたんです。その後、自然農法の流れを汲む福岡正信さんの『わら1本の革命』を読みます。そこでは雑草といかに共生するかを説いていて、納得できる手法にようやく辿り着けました。農業の技術は再現性が低くて、その土地、その土地ごとにやるしかない。自分なりの農法を確立するまでは本当に大変でしたね」
福岡正信は、日本よりむしろフランスを始めとする海外で有名な人物といえるかもしれない。無農薬、無肥料、不耕起。小山田さんも畑を耕さずに春から夏は下草を伸ばしたままにする。そして夏から秋のぶどうが熟す直前は、必要に応じて下草を2~4回刈るというやり方だ。
「そうやって農業とは何か、自然農とは何かと考えていくと、会社に雇われてサラリーをもらいながら生活するのではなく、自分で育てた糧そのもので生きていきたいと考えるのは、自然の流れだったと思います」
小山田さんにとって農業は、自ら屹立するための精神的支柱でもある。「自分の望むぶどうは自分にしか栽培できない。他人が育てたぶどうではたとえ死んでも仕込みたくない」と、そう言うのだから。続けて、「太宰治の小説『斜陽』に、こんな文章があるんですよ」と小山田さんは語った。
「『こんにちは』を軽く言えない、飲んだくれて精神的に病んでいる人が生きていくには、道は三つしかない、と。ひとつは帰農、ひとつは自殺、ひとつは女の紐です。どれも思考を停止するということですね。太宰が帰農を語るというのは少し驚きましたけれど、この一節は、帰農している自分にはじつにしっくり来ます。日本の場合、農業をやるということは自然に飲み込まれるということ。自然の流れに従って、次は右にするか、左にするか、明日はこれやろうという感じで何も考えず、自然へと埋没していく。どんどん自我がなくなって、そうやって自然に従属するのが心地いいし、快感になるんです。農業をやっているときだけは哲学的なもんもんとした想いから逃れられます」
当時はすでにルミエールに勤めるかたわら自らの畑を持ち、ぶどう栽培を始めていた。2014年、独立を果たす。ドメーヌ・オヤマダの誕生だった。
【その2に続きます】
取材・文/鳥海美奈子
2004年からフランス・ブルゴーニュ地方やパリに滞在して、文化や風土、