文/藤本一路(酒販店『白菊屋』店長)
今宵の一献は「高砂 辛口純米」。静岡県は富士山の麓の富士宮市にある富士高砂酒造の純米酒です。
「高砂」と聞けば、近年は結婚式の披露宴で新郎新婦が座る、一段高く設置された席の事を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。なぜ、新郎新婦の披露目の席を「高砂」と呼ぶのでしょう?
その由来は日本の伝統芸能である能の中で最もめでたい謡とされる「高砂」からきています。謡曲「高砂」は、室町時代に活躍した優れた能役者であり能作家でもある世阿弥の作品です。
物語は、ひとつの幹から雌株と雄株、もしくは赤松と黒松が寄り添って生え出ている「相生の松」の精だという老夫婦に、主人公が出会うところから始まります。元々同じ所に生えていたものが、兵庫の高砂と大阪の住吉という地に離れてしまっても心は繋がっている――そんな永遠の夫婦愛と長寿を願った謡曲だそうです。
/~高砂や この浦舟に 帆を上げて この浦舟に帆を上げて
月もろともに 出潮の 波の淡路の船影や……
さわりの一節は、サライ世代の方なら聞き覚えがあるかも知れませんね。
昔は披露宴で仲人さんが言祝ぎ(ことほぎ)としてよく歌われていたものですが、最近はそんな機会も少なくなっていますが、さて――。
今回ご紹介する日本酒「高砂 辛口純米」は、そんなお目出たい言祝ぎを銘柄に冠したお酒です。
蔵の創業は1830年。初代・山中正吉が能登杜氏と共に酒造りを始めて今年で、187年になる老舗です。
創業当時の世相は暗く、飢饉も続いていた時代でした。だからこそ、初代正吉は様々な場面で飲まれる日本酒に、謡曲「高砂」に出てくる、いつまでも仲睦まじく老いていく幸せな夫婦の情景を重ね見て酒名にしたそうです。
現在は創業家の手から離れ、縁あって三重県四日市市出身の山岸逸人さんが、平成24年から9代目として蔵を引き継いでいます。
富士高砂酒造は、全国に約1300社ある浅間神社の総本山にして世界遺、産にも指定されている富士山本宮浅間大社のほど近くに位置しています。
浅間大社境内の湧玉池からは、富士山の伏流水が毎秒3トンも湧き出ています。富士高砂酒造の蔵内の井戸から湧出する水もまったく同じ伏流水で、昔から今にいたるまで変わらず仕込み水に使われています。
長きに渡り「高砂」の酒質を高めてきたのは、18歳から蔵入りして半世紀、50年近く造りに精勤してきた、今は亡き名杜氏・吹上弘芳(ふきあげひろよし)さん。私も生前お会いした事がありますが、酒造り中の厳しい眼差しとは打って変わって、蔵見学をする私たちには穏やかな笑顔で対応して下さったことを今も鮮明に憶えています。
平成18年春。すべての酒の搾りと検定を終えた、いわゆる「皆造(かいぞう)」の日を迎えれば、吹上杜氏は遠く離れた故郷の能登へ帰るのがいつもの習いです。しかし、体に不調を覚えた吹上さんはそのまま直行した病院に入院、その年の9月には不帰の人となります。
恐らくは仕込み期間中も体の痛みや不調を自覚していたに違いありません。しかし、名杜氏は自身の不調を周囲に訴えることなく、酒造りを指揮していたといいます。
そんな名杜氏のもとで、9年間にわたって酒造りを学んだのが現杜氏の小野浩二(おのこうじ)さんなのですが――吹上さんは亡くなる直前、見舞いに訪れた小野さんに、こんな言葉をかけたそうです。
「教えることは全て教えたから君なら出来る」
「ただ……一度で良いから小野君の造った酒を見たかった」
この時期、小野さんには迷いがありました。思うところあって、別の酒蔵へ転身すべきか、あくまで踏みとどまって吹上杜氏の仕事を引き継ぐか。
そんな分岐点に立って、悩んでいたのです。
結局、小野さんは蔵に残って、その年の造りに専心します。そして、今に至るわけなのですが、人生の分岐点に立っての決断は、吹上さんの遺言ともいえるひとことを聞いた、病院の帰り道だったそうです。
さて、今回の「高砂 辛口純米」。普通、「辛口」と聞けば喉にカーッとくるシャープなイメージを持たれるのではないでしょうか。
実際に数値上では「+10」のお酒ですから、そこそこの辛口に仕上がっています。にもかかわらず、「高砂」は仕込み水に富士山の伏流水という大変にやわらかい軟水が使われているお陰で、水質がそのまま酒に表われて、酒質も本当に柔らかくなっています。
ピリッとした様な辛味は一切無ありません。スルスルと優しく喉を通り過ぎます。その飲み口は、冷たくすればよりスッキリと、ヌル燗にすればフワリと羽が生えたように優しく軽快な飲み心地で、上品な旨みが口中に広がって後口のキレが抜群になります。
疲れずに何杯でも飲めてしまう、怖いお酒です。
お酒はぬるめの燗がいい、そんな演歌のひと節もありましたが、明らかに「高砂 辛口純米」はヌルめの燗が最高です。熱々にすると、そのせっかくの柔らかく繊細な味わいを感じ取れなくなりますので、どうぞご注意を。
そんな「高砂」と料理との相性はどうでしょうか。
今回、「堂島・雪花菜」の間瀬達郎さんにご用意頂いたのは「イトヨリの道明寺蒸し」です。
道明寺粉という、一度蒸したモチ米を乾燥させて砕いたものを使っています。写真では分かりにくいのですが、イトヨリの下に隠れています。
鯛の白子の周りに散りばめられた旬のえんどう豆とウルイが彩りを添え、ほっこりとした銀餡がかかっています。
全体として非常に薄味に仕上がっていて、ホッとする様なまろやかな味わいです。「高砂」のヌル燗を口に含めば、優しい料理が一段と優しく感じる程に寄り添ってくれます。
えんどう豆の穀物感には”純米酒”ならではの落ち着いた米の味わいがよく合いましたし、鯛の白子とはお互いが持つクリーミィーな質感が相性よくシックリときました。
酒自体が主張し過ぎず、気が付けば横に居てくれる安心感とでも言いましょうか、胃にも優しく染み渡ります。
熱燗ではなく、まさにヌル燗だからこそ出てくる「高砂」の味わいと見事に溶け合いました。
「雪花菜」の間瀬さんが言うには「『高砂』の辛口純米が、優しい味わいだったので、料理をゴチャゴチャさせたくなかった」のだそうです。
なるほど。そもそも淡白な味わいのイトヨリを使ったのも、そういう理由からだったのかも知れませんね。
ところで、みなさんは燗酒は、家でよく飲まれるでしょうか?
私の店のお客様にうかがってみたところ、「燗をするのが面倒だからした事がない」、「嫁が燗付けをしてくれない」、「どうやって燗を付けたら良いかわからない」、「良い酒は冷で飲む方がイイに決まってる」等々。
色々なご意見をいただきました。
そんな時は、店頭で私がつけた燗酒の試飲をして頂きながら、燗酒への間違ったイメージを払拭していただき、燗のつけ方も決して難しくないことをお伝えしています。
その昔、大きな料亭などには「お燗番」という、今風にいうと燗酒専門のソムリエみたいな方がいたものでした。燗酒は、それほど店にとって重要な位置を占めるものだったのです。
実際、細かな温度調整によって、味わいは大きく変わります。
もっとも、皆さんがご自宅で飲む場合は、それほど難しく考えず、気軽に楽しんで頂ければいいと思います。
最近は子供中心の食卓で、父親の晩酌に付き合ってくれる奥様は少ないようではありますが――願わくば、冒頭の「相生の松」の老夫婦の様に、いつまでも仲むつまじく、奥様がつけた燗酒の盃を和やかに交わし合う二人で居たいものですね。
/~高砂や この浦船に帆を上げてぇ この浦船に帆をあげて
波の淡路の島影や 遠く鳴尾の沖過ぎて
はやすみのえに着きにけり はやすみのえに着きにけり
四海波静かにて 国も治まる時つ風 枝を鳴らさぬ 御代なれや
逢ひに相生の松こそ めでたかりけれ げにや仰ぎても ことも愚かや
かかる世に住める 民とて豊かなる
君の恵みぞ ありがたき 君の恵みぞ ありがたき
文/藤本一路(ふじもと・いちろ)
酒販店『白菊屋』(大阪高槻市)取締役店長。日本酒・本格焼酎を軸にワインからベルギービールまでを厳選吟味。飲食店にはお酒のメニューのみならず、食材・器・インテリアまでの相談に応じて情報提供を行なっている。
【白菊屋】
■住所:大阪府高槻市柳川町2-3-2
■電話:072-696-0739
■営業時間:9時~20時
■定休日:水曜
■お店のサイト: http://shiragikuya.com/
料理/間瀬達郎(ませ・たつろう)
大阪『堂島雪花菜』店主。高級料亭や東京・銀座の寿司店での修業を経て独立。開店10周年を迎えた『堂島雪花菜』は、自慢の料理と吟味したお酒が愉しめる店として評判が高い。
【堂島雪花菜(どうじまきらず)】
■住所:大阪市北区堂島3-2-8
■電話:06-6450-0203
■営業時間:11時30分~14時、17時30分~22時
■定休日:日曜
■アクセス:地下鉄四ツ橋線西梅田駅から徒歩約7分
構成/佐藤俊一
※ 藤本一路さんが各地の蔵元を訪ね歩いて出会った有名無名の日本酒の中から、季節に合ったおすすめの1本をご紹介する連載「今宵の一献」過去記事はこちらをご覧ください。