日本全国には大小1,500の酒蔵があるといわれています。しかも、ひとつの酒蔵で醸(かも)すお酒は種類がいくつもあるので、自分好みの銘柄に巡り会うのは至難のわざです。
そこで、「美味しいお酒のある生活」を提唱し、感動と発見のあるお酒の飲み方を提案している大阪・高槻市の酒販店『白菊屋』店長・藤本一路さんに、各地の蔵元を訪ね歩いて出会った有名無名の日本酒の中から、季節に合ったおすすめの1本を選んでもらいました。
【今宵の一献】三重・木屋正酒造『而今』
禅宗の教えのなかに「而今」という言葉があります。禅語では“にこん”と読むそうですが、ひとことで言えば“今を生きる”という意味です。
「今」というこの瞬間は、ほとんど無意識のうちに過ぎ去ってゆくものです。なのに、人は過去にとらわれて、いつまでも執着をしがちです。はては、まだ見ぬ未来へ危惧の羽根をのばして不安に駆られたりもします。
でも、大切なのはつい見過ごしてしまいそうな、この目の前の一瞬一瞬を真摯に生きること、二度と戻っては来ない今を精一杯生きること、その積み重ねが未来を開いてゆくのです。
「今宵の一献」は、そんな深い意味合いを持つ禅語を酒の名に冠した『而今(じこん)』。三重県名張市「木屋正酒造(きやしょうしゅぞう)」のお酒ですが、その『而今』のラインナップのなかでも最高峰に位置する「純米大吟醸」をご紹介します。
一年の締め括りにあたる時節柄、自分をねぎらうご褒美として杯を挙げるもよし。あるいは、新たな一年の始まりに臨んで、元旦に酌むもよし。
『而今 純米大吟醸』は“ハレの日”にふさわしいお酒です。
蔵元の木屋正酒造は江戸も後期の文政元年(1818)の創業から、もうすぐ200年目を迎えようとする老舗です。
酒蔵のある名張市は、伊賀盆地の南部にあって、遠く万葉の昔から山峡の宿駅として開けた歴史を持つ、山紫水明の自然郷です。
一説によれば「隠る(なばる)」という言葉がなまって、それが町の名に転じたともいわれます。なるほど、山中深く隠れたかのような印象を抱かせる立地にあって、かつては城下町・宿場町として栄えてきた町です。
木屋正酒造は、名張駅から少し歩いた距離にある旧商店街の真ん中あたりに位置しています。初代・大西庄八の創業の頃の風情を今に伝える、その酒蔵のたたずまいの一部は2013年に登録有形文化財に指定されています。
当主の6代目大西唯克(おおにし・ただよし)さんは、大学卒業後は乳製品の会社に就職。そこで雑菌や温度に対する管理を厳しく学んだ経験が今の日本酒造りに大いに役立っているそうで、その姿勢は何をおいてもまず蔵を清潔に保つことを第一とすることに表われています。
さて、木屋正酒造が醸す『而今』の人気ぶりは、お酒好きの方ならすでにご存じかと思います。日本酒を特集した媒体には必ずといっていいほど登場しますし、今をときめく酒蔵として紹介されています。しかし、ここに至るまでの道のりは決して平坦なものではありませんでした。
6代目が蔵にもどり、先代・大西武夫(おおにし・たけお)さんの後を継いだ頃は、日本酒の低迷期で、生産量は激減の一途。先行きへの危機感ばかりが募る日々だったようです。
それでも、とあるお酒との出会いから「日本酒の初心者が飲んでも美味しいと感嘆するようなお酒」を造りたいという思いから、手探りの試行錯誤が始まります。
但馬杜氏のもとで2年間の酒づくりを経験した後、2004年に6代目自らが杜氏となり、経験不足は身を削る努力で補って30石のお酒を醸します。しかし、その僅か30石のお酒も地元ではまったく受け入れられなかったそうです。
大西さんが初めて私どもの酒販店「白菊屋」を訪ねてこられたのは、その頃だったでしょうか。正直、酒質は今ほどの完成度ではなかったのですが、大西さんの真っすぐで生真面目な人柄と酒造りへの熱い思いを感じて、微力ながら応援することを決めた次第です。
県外に活路を見出したことで支持を得て、2年目は倍の60石、3年目は90石と順調に製造石数は増えてゆきますが――自身の精神的な余裕のなさから、造りの現場できつくあたったことで蔵人は去り、どうにか季節雇用で人手を補いながら行う、そんな孤独な酒造りが続きます。
転機は、奥さまの香美さんとの出会いでした。自身が目指す世界を理解する伴侶を得て、6代目の酒造りは加速します。
そして、ほどなく今の若き蔵人たちで形成する「チーム而今」に辿り着いたのです。「全員が同じ目的をもって取り組む、そのチーム力はどこの蔵にも負けません」。今、そう話す大西さんの笑顔からは、納得行く酒造りができているという自信と充実感が伝わってきますが、さて――。
『而今』は多品種少量生産です。主に酒米の品種違いで生タイプと火入れタイプに分ければ、『而今』は20種類近くにもなります。しかし、いずれも味わいは一貫していて、華やかな香り高く、果実を思わせるジューシー感あふれる甘みと酸みのバランスがよくとれています。
いわゆるフルーティーという表現に例えられるお酒です。『而今 純米大吟醸』は、蔵の最高峰といえる圧倒的な品格を備えていて、誰もがうっとりするような甘美な味わいを持っています。
使用する原料は、酒米の王様といわれる山田錦。ただし、全国一と評価の高い兵庫県の特A地区産ではなく、あえて三重県名張産の山田錦を使っています。地元産の酒米で醸す日本酒の自信作『而今』を通じて、日本のみならず世界に名張の名を宣揚したいという、大西さんの思いもそこには込められています。あまり知られてはいませんが、三重県は山田錦の作付け面積が全国13位と少ないながら、じつは「特等」以上の等級比率では全国3位と非常に優れているのです。
華やかな香りをもつお酒は、料理には合わないと長きにわたっていわれてきました。とりわけ、関西の和食料理人はそういいます。
かくいう私自身も、あまり華やかな香りの強いお酒は得意ではありません。関西ならではの昆布を主体として鰹節に醤油という出汁の食文化には、たしかに華やかな香りのお酒は合いにくいのが実情です。
しかしながら、これだけ食材が豊富な世の中です。香り高いお酒は本当に料理全般に合わないのでしょうか。ふと、そんな疑問が萌して、何年か前に15軒ほどの和食の料理店に声をかけ、「『而今』に合う料理を考えてみてください」、そうお願いしたことがありました。
1カ月後、その成果を一堂に集めて、蔵元も含めての試食会を開催することで、料理との相性を探ってみたのです。結果的には<こんなにも合う料理があった!>ということで、参加した飲食店の皆さんが一番驚いたのではないでしょうか。料理に酒を合わせるのではなく、酒に合わせた料理をつくる、という普段とは逆の作業が新鮮だったようです。
『而今』に合う料理を考えてもらった15軒のなかには、いつも「今宵の一献」の料理作成でお世話になっている大阪堂島『雪花菜』の間瀬達郎さんも参加してくれていたのですが――さて、今回の「大吟醸」にはどんな料理酒を合わせてくれたのでしょうか。
その名は「鮑とろろ」。生の鮑を精魂込めて磨りおろし、2割程とろろを加えてから昆布出汁で伸ばしています。新潟の郷土料理のひとつ「へぎ蕎麦」の上に、鮑とろろ、そこへ薄く細長く切った鮑の桂剥きがのっています。さらにムカゴを加えて、三重県産あおさ海苔、鮑の肝醤油をかけて、セリ科の香菜パクチーの微塵切りを散らしています。
この少量のパクチーが、『而今』の持つ甘みとアロマティックな風味にぴったりです。口へ運ぶと、磯の風味は穏やかになり、鮑の旨みに、ほのかなスパイシー感が絡んで、なんとも贅沢にまとまってくれます。
「『而今』の持つフルーティーな華やかさとパクチーの香り高さ、そのふたつの着地点が同じ」と感じた間瀬さんが、鮑の風味を生かしながら、『而今』の良いところだけを引き出す料理として完成させた見事な一品です。
お酒は猪口とワイングラスの両方で試してみましたが、後者のほうが飲み口がシャキッとして料理にも合いました。
布海苔をつなぎに使う、へぎ蕎麦と鮑の相性も非常によかったですよ。
間瀬さんによれば、鮑の旬が夏場なので、本来は夏の料理として出すことがあるそうですが、今回は「ハレの酒」と「ハレの料理」として、あえて鮑づくしで仕上げてみたとのことです。
そういえば、なぜ「へぎ蕎麦」を使ったのかは、間瀬さんに聞かなったのですが、じつは『而今』の大西さんの奥様は新潟県の出身です。「千代の光」という日本酒を醸す酒蔵の娘さんですが・・・・この新潟つながりを間瀬さんが意識してのことなのか、あるいは偶然の一致なのでしょうか!?
木屋正酒造は着実に生産量と売り上げを伸ばしながら、毎年、蔵の設備や働く環境への投資につとめています。その一環で今年は酒造りの心臓部といわれる麹をつくる麹室を新設しました。世間の評価に甘んじることなく、気を緩めることなく、より高みを目指し続けています。
確実にいえる事は今だに一切の妥協をせず真摯に酒造りに励む姿勢は「今この瞬間」だけでなく、この先の未来、香美さんとの間に生まれた幼き2人の息子達へと受け継がれていく事でしょう。
文/藤本一路(ふじもと・いちろ)
酒販店『白菊屋』(大阪高槻市)取締役店長。日本酒・本格焼酎を軸にワインからベルギービールまでを厳選吟味。飲食店にはお酒のメニューのみならず、食材・器・インテリアまでの相談に応じて情報提供を行なっている。
■白菊屋
住所/大阪府高槻市柳川町2-3-2
TEL/072-696-0739
営業時間/9時~20時
定休日/水曜
http://shiragikuya.com/
間瀬達郎(ませ・たつろう)
大阪『堂島雪花菜』店主。高級料亭や東京・銀座の寿司店での修業を経て独立。開店10周年を迎えた『堂島雪花菜』は、自慢の料理と吟味したお酒が愉しめる店として評判が高い。
■堂島雪花菜(どうじまきらず)
住所/大阪市北区堂島3-2-8
TEL/06-6450-0203
営業時間/11時30分~14時、17時30分~22時
定休日/日曜
アクセス/地下鉄四ツ橋線西梅田駅から徒歩約7分
構成/佐藤俊一
※『サライ』1月号は「日本酒」と「蟹」の大特集!詳細は下記よりご覧下さい。試し読みもできます。
https://serai.jp/news/120080