文/藤本一路(酒販店『白菊屋』店長)
今宵の一献、今回は兵庫県・姫路市、下村酒造店の『奥播磨 純米吟醸生・袋しぼり三十五號』のお酒を紹介します。
兵庫県の中西部に位置する宍粟郡(しそうぐん)安富町は、2006年の市町村合併によって姫路市に編入され、現在は姫路市安富町になっています。
姫路市と聞くと、私などは播磨灘に面した海の景観を思い浮かべてしまうのですが、安富町は県北の山間部にあって、その面積の90%が森林で占められています。町を貫流する林田川は、源氏蛍の保護区にも指定されるほどの山紫水明の長閑な田園地帯です。
今回は、そんな林田川の伏流水を仕込み水とする酒蔵「下村酒造店」(しもむら・しゅぞうてん)をご紹介したいと思います。
創業は明治17年(1884)。今年で133年目を迎える老舗です。お酒の製造石数は約800石。常に「手づくりに秀でる技はなし」ということをモットーとして、酒造り一筋に歩んできた蔵です。
確かな酒づくりの技から、長く大手酒造メーカー「剣菱」への“桶売り”を行なってきましたが、今は自社銘柄のみを醸造しています。その銘柄は『奥播磨』です。昔から米の旨みをしっかりと表現することに自信を持つ蔵は、できあがったお酒を熟成させ、十分に旨みがのったところで出荷をします。
現在、下村酒造店を取り仕切るのは6代目・下村裕昭(しもむら・ひろあき)さん。東京農大醸造学科を卒業して以来、酒づくりの先頭に立って、下村酒造店を牽引してきました。
仕込みの現場に関わるのは、おおむね5人。彼らはいつもチームワークを第一に、お互いを切磋琢磨しながら日々の仕事に取り組んでいます。そのなかには、いずれ7代目を継ぐことになる下村元基(しもむら・もとき)さんもいます。4年前に他蔵での修行を終えて下村酒造店に戻ったのです。
下村酒造店には、恵まれた自然環境やチームワーク抜群の蔵人たち以外にも、じつは大きな強みがあります。それは高品質な酒米を比較的容易に入手できることです。
ご存知のように、兵庫県は日本有数の酒米の産地です。なにより、酒米のブランド品「山田錦」の名産地として全国に知られています。
同じ山田錦でも、特等クラスの高品質なものについては生産量も限られていますが――下村酒造店は、日本酒の売れ行きが低迷、酒米が余る時代でもより安価な二等米、三等米に走ることなく、常に「特等米」を主力に使い続けてきました。それが、最高の酒米を丹精する農家にとって、どれほどの励みになったかは想像に難くありません。
そうした酒米の生産農家との信頼を築き上げてきたからこそ、全国で山田錦が不足する年があっても、下村酒造店にかぎっては困らず、常に最高の山田錦で酒を仕込むことができるのです。
今回ご紹介する『奥播磨 純米吟醸生・袋しぼり三十五號』は、兵庫産山田錦を50%まで磨いた、真珠のような酒米を使って醸しています。そのすべての工程で手作業にこだわり、大吟醸を仕込むのと同様の手間をかけて丹念に仕込まれます。
じつは、このお酒こそ、私が美味な日本酒を探訪し始めた時代に、本質的な気づきを与えてくれた、いわば原点ともいえる一品なのです。
下村酒造店との取引が始まったのはちょうど20年前ですから、私が酒販店の仕事に就いて3年ほど経った頃のことです。
当時の私は「大吟醸が一番良い酒」なのだと思い込んで、ひたすら各所の蔵の大吟醸を飲み漁っていたわけですが――『奥播磨 純米吟醸生・袋しぼり三十五號』を初めて口にしたときの衝撃は今も記憶に鮮明です。
大吟醸のような華やかさはなく、生酒はフレッシュさが命と思っていたのに、適度に熟成した生酒のまったりとした飲み口のなかに、濃醇な米の旨みに豊かな酸! 今まで飲んでいたお酒とは大きく違う味わいに感動したのです。
20年前といえば、今の『奥播磨』の味の基礎を築いた名杜氏の高垣克正(たかがき・かつまさ)さんと6代目の下村さんが二人三脚で歩み始めた頃だったと思います。
今よりも残糖分は多かったでしょうか。その後、辛口を求められる時代が長く続くのですが、高垣杜氏が退いた後は、新たな杜氏を雇うことなく、蔵元の下村さんと若い職人たちだけで酒造りに精勤します。より一層手をかけて仕込むことで、酒質は少しく変化、洗練されすっきりとした味わいになっています。『奥播磨 純米吟醸生・袋しぼり三十五號』は、下村酒造店を代表する銘酒として、今も日本酒ファンに支持され続けている逸品です。
ところで、「袋しぼり」とはどういうことなのでしょうか。
現在、酒造業界において、お酒を搾る際に主流となっているのは「藪田式圧搾機」です。大きなアコーディオンのような形をしていて、ポンプで送り込まれた醪(もろみ)が、そのなかで酒粕と液体に自動的に分離される仕組みになっています。
機械の洗浄が大変な手間ですが、搾る際に人手がかからないことと、お酒が空気に触れないのでフレッシュさを保つ、というメリットがあります。
もうひとつは原始的でありながら、いまも熱烈な支持者が多い「佐瀬式圧搾機」です。こちらは酒袋に手作業で醪(もろみ)を入れて、深さ90cmほどの大きな長方形の箱のなかに、積み重ねてゆきます。その箱の形状が舟底を思わせることから、佐瀬式のことを酒蔵の人たちは「槽(ふね)」と呼んでいます。
積まれた醪の袋の自重によって自然と酒が垂れはじめ、その後は上から重石をするように圧力をかけてしぼるのです。酒袋を積み重ねていく時点で、結構な労力を要すること、その積み重ね方にも経験が必要です。
佐瀬式は薮田式に比べると、酒質はやわらかくキメが細かくなる感じがあるでしょうか。
『袋しぼり三十五號』は、名前からわかるように「佐瀬式」のしぼり方を採用しています。もっと厳密にいえば、佐瀬式から派生したヤエガキ式槽搾りという手法によって、丁寧にゆっくりとしぼられたものです。
さて、大阪『堂島 雪花菜(きらず)』の間瀬達郎さんが、『奥播磨 純米吟醸生・袋しぼり三十五號』に合わせてくれたのは「信太巻(しのだまき)」という料理です。
ちょうど、この時期は稲荷神社の祭りの「初午(はつうま)」にあたることを念頭において、キツネの好物とされている油揚げを使った一品です。
人参や牛蒡(ごぼう)といった野菜と鶏肉などを油揚げで巻いて煮たものですが、信太巻というのは主に関西での呼び名になるのでしょうか。
間瀬さんに味見してもらった平成25年度の『袋しぼり三十五號』は、例年よりかなりスッキリしていたこともあり、その飲み口に合わせてふんわりとした優しさを感じる料理を用意してくれました。
旨みの最も出た年度の『袋しぼり三十五號』なら、味や歯ごたえがもう少し肉っぽい料理でも合うでしょうね。
お酒の温度は燗冷まし気味にして、出来る限り旨みを引き出した状態にして料理と合わせてみます。見事、しょう油ではなく塩ベースの筑前煮のような信太巻の味わいが、今回の『奥播磨 純米吟醸生・袋しぼり三十五號』の持つ米の旨みと非常によく馴染みました。
添えている葉玉葱の甘みと菜の花、上に載せたウドと柚子の千切りも、このお酒が持つ複雑な酸味とほのかな渋味・苦味がうまく絡んでくれて、全体によりまとまりが出て、思わず知らず盃も進みます。
因(ちな)みに、私が『奥播磨 純米吟醸生・袋しぼり三十五號』を飲むときに思い浮かべる食べ物に“海の幸”はほとんどありません。
酒蔵が山間部に位置するせいか、地元ではアマゴや鯉などの川魚や佃煮、最たるものは冬のジビエ(野生の鳥獣料理)を象徴する猪でしょうか。
実際、牡丹鍋を囲むときに飲むお酒は『奥播磨』以外に思いつかないほど、しっくりとくる相性を見せてくれます。
目下、猪は狩猟期間真っ最中。1年のうち限られた期間しか楽しめない冬のジビエ料理です。
自然界のありがたい命を感謝と共にいただきながら『奥播磨』をじっくり味わってみてはいかがでしょう。野性味あふれる肉と日本酒の素敵なマリアージュ、その双方の美味を互いに高め合う組み合わせに、あらためて日本酒の懐の深さを感じながら、やがて訪れる春を待つのもいいですね。
文/藤本一路(ふじもと・いちろ)
酒販店『白菊屋』(大阪高槻市)取締役店長。日本酒・本格焼酎を軸にワインからベルギービールまでを厳選吟味。飲食店にはお酒のメニューのみならず、食材・器・インテリアまでの相談に応じて情報提供を行なっている。
【白菊屋】
■住所:大阪府高槻市柳川町2-3-2
■電話:072-696-0739
■営業時間:9時~20時
■定休日:水曜
■お店のサイト: http://shiragikuya.com/
料理/間瀬達郎(ませ・たつろう)
大阪『堂島雪花菜』店主。高級料亭や東京・銀座の寿司店での修業を経て独立。開店10周年を迎えた『堂島雪花菜』は、自慢の料理と吟味したお酒が愉しめる店として評判が高い。
【堂島雪花菜(どうじまきらず)】
■住所:大阪市北区堂島3-2-8
■電話:06-6450-0203
■営業時間:11時30分~14時、17時30分~22時
■定休日:日曜
■アクセス:地下鉄四ツ橋線西梅田駅から徒歩約7分
構成/佐藤俊一
※ 藤本一路さんが各地の蔵元を訪ね歩いて出会った有名無名の日本酒の中から、季節に合ったおすすめの1本をご紹介する連載「今宵の一献」過去記事はこちらをご覧ください。