文/砂原浩太朗(小説家)
人呼んで「徳川四天王」――。家康が関ヶ原で勝利を手にする以前からしたがい、天下とりに貢献した譜代家臣の代表格である。名を挙げれば、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政と、この時代の歴史に興味ある方ならお馴染みの名将・猛将が目白押しだ。が、260年が経過した幕末、これら名将たちの子孫について、大老・井伊直弼(なおすけ)以外の事績はほとんど語られることがない。忠臣たちの末裔は、はたして「御家の大事」にどう向き合ったのか。
本多忠勝~三河岡崎藩の場合
家康には過ぎたる家臣とまで讃えられた本多忠勝(1548~1610)は、あまたいる戦国武将のなかでも特に人気のある人物だろう。13歳で初陣したのち、生涯五十余たびの合戦に参加し、一度も傷を負わなかったという剛の者である。といって力まかせの猪武者というわけではない。かの武田信玄を相手とする三方ヶ原の戦いでは負けいくさを経験したが、敵の法師武者を討ち、「信玄の首をとった」と触れて、意気消沈する味方を活気づけたという。
忠勝は関ヶ原後、伊勢桑名(三重県)10万石の大名となり、子の代に5万石加増されたが、その後、転封がつづく。なんと、江戸期をつうじて10回におよんだ。そのたび莫大な出費を強いられたうえ、宝永年間(18世紀はじめ)には嗣子なくして藩主が没する。本来なら取りつぶしとなるところ、家柄を考慮して存続を許されたものの、石高は5万石とされ、深刻な財政難に陥ってしまう。明和6(1769)年、三河国岡崎(愛知県)に移り領地替えは終わるが、その後も膨れ上がる借金とたびかさなる風水害に悩まされた。
幕末期の藩主・忠民(ただもと)は病がちの身をおして京都所司代や老中をつとめたが、幕府の勢威を盛り返すことはできなかった。鳥羽伏見の戦い(1868)で薩長が勝利したのち、病床にありながら時局を見据え、分裂した藩論を新政府支持に導いている。幕府の中枢に身を置いていた忠民には、徳川の限界が見えていたのかもしれない。
井伊直政~近江彦根藩の場合
四天王のなかで、本多忠勝とならぶ人気を誇るのが井伊直政(1561~1602)。近年はドラマなどの影響で、むしろこちらの方が知られているだろう。井伊家は他の三家とことなり、古くからの譜代というわけではない。もと遠江(静岡県)の土豪だったのが、直政の代から徳川家へ仕えるようになった。鎧や武具などを赤で統一した「赤備え」が有名で、この色から赤鬼と恐れられるほどの猛将だが、毛利家の知恵袋ともいうべき小早川隆景からは「天下の政治を動かせる器量」と評されている。一武将にとどまらない、うつわの大きな人物だったのだろう。石田三成の領地だった佐和山で18万石をたまわったが、関ヶ原で受けた傷がもとで早世した。彦根(滋賀県)に居城が移るのは、その死後である。
井伊家は一度も転封がなく、直政の子・直孝が2代秀忠以降の将軍に重用されて35万石の大家となった。家臣の最高位ともいうべき大老を5人(異説あり)輩出しており、まさに譜代筆頭といえる。
幕末の藩主として有名な直弼(1815~60)も大老として強大な権力をにぎった。が、天皇の許しを得ず外国と条約を結んだことや、安政の大獄で勤皇の志士を弾圧したことなどから反発を招き、桜田門外で暗殺される。
ここまではよく知られていることだが、その後、彦根藩は直弼の在職中に不都合ありとして、10万石を削られてしまう。尊皇派の追及をかわすためだろうが、藩主が亡き者にされたうえ、主家からこのような処遇を受けた井伊家の無念は、想像して余りある。慶応3(1867)年、王政復古の大号令が発せられると彦根藩は新政府方にくわわり、戊辰戦争(1868)にも出陣する。この選択もやむをえない、とむしろ同情をおぼえてしまうのは、筆者にかぎらないだろう。
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