昨年夏『サライ.jp』に連載され好評を博した《実録「青春18きっぷ」で行ける日本縦断列車旅》。九州・枕崎駅から北海道・稚内駅まで、普通列車を乗り継いで行く日本縦断の大旅行を完遂した59歳の鉄道写真家・川井聡さんが、また新たな鉄道旅に出た。今回の舞台は北海道。広大な北の大地を走るJR北海道の在来線全線を、普通列車を乗り継ぎ、10日間かけて完全乗車するのだ。
文・写真/川井聡
釧路駅の2・3番線は素晴らしいホームだ。古レールを何本も使った柱が長く巨大な屋根を支えている。現在、優等列車が発着するのは1番線だが、かつては2・3番線も優等列車が発着し、根室・網走、そして帯広方面に向かう人たちを大量に支えてきた。
ホームの端には大きな石炭塊がある。春採にあった太平洋炭鉱で採掘されたもので、この炭鉱は現在も採炭を続ける日本で唯一の炭鉱である。
炉端焼き発祥の地としても知られ、魚の街のイメージが強い釧路だが、この街を育ててきたのが実は鉱業である。先ほどの太平洋炭鉱の歴史は江戸時代にまで遡る。北海道で一番初めの炭鉱であり、最も長い歴史を持つ炭鉱なのである。釧路周辺は炭層に恵まれ、なかでも雄別炭鉱は専用の鉄道が釧路駅まで乗り入れていた。そのホームは現在も駅の北側に一部が残されている。
そのホームを隣に見ながら、釧網本線の網走行きに乗車する。形式は先ほどの花咲線と同じキハ54型。今回乗車するのは、流氷のイメージイラストが車体に貼られた「流氷物語」号仕様である。
釧路湿原駅で夫婦連れの旅行者が下車していった。次の細岡駅までひと駅、歩くのだという。湿原を歩く楽しみはお二人に託し、塘路、茅沼、標茶と湿原の風景を堪能した。
塘路駅は、トロッコ列車「ノロッコ」号の終点でもある湿原のふちに沿ってカーブするホームが美しい
釧路の炭鉱は北海道一古いが、標茶の鉄道は、道内で二番目にできたものである。開業したのは、1887(明治20)年で、その目的は硫黄山(アトサヌプリ)からの硫黄採掘である。当時重要な輸出品目であった硫黄は、専用鉄道で標茶に運ばれ、工場で精錬されたのち小舟で釧路川を下り、釧路港から輸出された。ここで活躍したのはアメリカ・ボールドウイン社製の機関車で、「義経号」を小型にしたようなスタイルである。鉱山と鉄道は10年でその役目を終えたが、線路敷は国鉄が活用し、現在の釧網本線の一部になっている。
川湯温泉駅は、日本でも有数のログハウスの駅舎である。敗戦後、巡幸啓の締めくくりとして北海道を訪れた際、天皇皇后両陛下が休息をとられるために建て替えられたもので、駅を構成するのは、現在では集めることも不可能なイチイの巨木である。駅の中はレストランになっており、そこには40年来の付き合いとなるオーナーが料理を作っている。
斜里から網走まではオホーツク海岸を走る。車窓は右側だ。まだ5時前なのだが、曇天のせいかで夕暮れが早く感じる。
17時17分、空腹を抱えて網走駅に到着。昔から朝一番の特急列車からオープンしていた立ち食いそば屋があったのだが、すでに撤退していた。「駅めん」を楽しみにしていたが、お預けである。ともあれ、これで諦めはついた。
駅前を少し散策して、17時44分の北見行きに乗る。網走に泊まってもスケジュールに差し障りはないのだが、とにもかくにも、今日は北見に泊まりたいのである。
北見は、焼肉とバーの街。
「おいしいタマネギが獲れたから焼肉屋が増えたんですよ」
ホテルでもお店でも教えてくれるが、そんなことってあるのだろうか? でも、間違いなく北見の焼肉はウマい! お店の増加はこの数年のことなのだろうか。ただ20年前に比べて圧倒的に増えた。
さて、これで5日目も終わり。今日は、太平洋と釧路湿原そしてオホーツク海を眺める一日だった。そしてそのどれもが廃止候補という、まさに今の北海道を体現したような路線である。しかも、この三線とも、実に風光明媚で、これぞまさに北海道という観光地を備えているのだが、それらを活かし切ったのか、活かすのを諦めたのか……。
「未来を見据えた若者よ出でよ!」ぢゅうぢゅうと立ち上る焼肉の煙を眺めながら、そんなことを思う北見の夜であった。《6日目に続く!》
【5日目・その2乗車区間】
釧路~網走~北見(根室本線、釧網本線、石北本線)
【5日目乗車区間】
根室~釧路~網走~北見(根室本線、釧網本線、石北本線)
本日の総乗車距離 357.5km、本日の新規乗車 219.2km、未乗車距離 942.2km
文・写真/川井聡
昭和34年、大阪府生まれ。鉄道カメラマン。鉄道はただ「撮る」ものではなく「乗って撮る」ものであると、人との出会いや旅をテーマにした作品を発表している。著書に『汽車旅』シリーズ(昭文社など)ほか多数。