文/後藤雅洋
2016年4月に創刊した『ジャズ・ヴォーカル・コレクション』(監修:後藤雅洋、サライ責任編集、小学館刊)が、いよいよ最終号を迎えました。52巻に及ぶこのシリーズを振り返ってみると、私なりにいろいろと新たな発見がありました。
まず平凡な感想ですが、どんなヴォーカリストにも聴きどころがあるということをあらためて実感したのは大きな収穫でした。しかしこれは、「個性重視」の音楽であるジャズでは当たり前のことでもあったのです。「個性」のありようはそれこそ多様なのです。
そしてもうひとつの大きな発見は、従来はインストゥルメンタル(器楽演奏、以下インスト)・ジャズがメインで、ヴォーカルはジャズのサブ・ジャンルのように見られていましたが、現在ではヴォーカルがジャズ・シーンの中心に躍り出てきているということです。これは新譜アルバムを聴けば一目瞭然です。
ひと昔前はインスト・ジャズのアルバムにヴォーカリストがゲスト参加することは珍しかったのですが、現代ジャズではほとんどといっていいぐらいヴォーカル、あるいはコーラスやヴォイスが参加したトラックが含まれています。この現象は一見新しい傾向のようにも思えますが、1930年代に一世を風靡したスイング・バンドには必ず専属バンド・シンガーが在籍し、ビッグ・バンド演奏の合間に歌を披露していたのです。
第49号「カウント・ベイシー・オーケストラ」で紹介したブルージーな黒人歌手、ジミー・ラッシングなどがよい例です。つまり、かつてインストとヴォーカルの関係はもっと緊密だったのです。そもそも音楽の歴史を辿ってみれば、楽器など特別な道具がなくとも、歌うことは誰にでもできました。別の見方をすれば、「声」は誰もが持っている楽器なのです。加えて「人の声」は、楽器の音色に比べ、喜怒哀楽の感情表現がしやすいだけでなく、微妙な哀愁感などのニュアンスも出しやすい。要するにジャズは音楽の原点に戻ってきたともいえるでしょう。
さて、こうした現象を理解していただいたうえで、今回の「ボサ・ノヴァ・ヴォーカル・コンプリート」に話を戻すと、いろいろと見えてくるものがあるのです。それはボサ・ノヴァと前号51号で紹介した「現代のジャズ・ヴォーカル」との共通点です。もちろん50年代末に誕生したブラジル発の音楽であるボサ・ノヴァと、21世紀の現代ジャズが同じということではありませんが、ある意味でボサ・ノヴァは現代ジャズの傾向を先取りしていたようにも思えるのですね。今回はそのあたりから話を始めたいと思います。
半世紀前にあった“現代”
最初にその「共通点」を指摘すると、両者ともに、知的で都会的なテイストをもった音楽であることですね。そしてその結果として表れているのが、「繊細さ」と「優しさの感覚」です。加えてどちらも大衆音楽的要素と、芸術的要素がうまい具合に融合している音楽でもあります。今回はこうした類似点に注目することで、ボサ・ノヴァの魅力を探っていくことといたしましょう。
まず注目すべきは、ボサ・ノヴァは当時まだ学生だったナラ・レオンやアストラッド・ジルベルトのような知的階層のアマチュア・ミュージシャンと、アントニオ・カルロス・ジョビンやジョアン・ジルベルトといった音楽的経験を積んだ優れたプロフェッショナル・ミュージシャンたちの共同作業から生まれた音楽であるという点です。そしてボサ・ノヴァは、サンバという黒人音楽の影響を受けたリズミカルなブラジルの大衆音楽をその基礎に据えつつも、クラシックの素養をもつジョビンの芸術的洗練も受けるという、ハイブリッド音楽でもあったという事実ですね。つまり、サンバとクラシック、大衆芸能とアートの奇跡的な融合がボサ・ノヴァだったのです。
これを現在のジャズ・シーンと重ね合わせてみると、今では大半のジャズ・ミュージシャンがバークリー音楽大学に代表されるような学校でジャズの専門教育を受けた「知的ミュージシャン」であるという事実がまず挙げられます。それと同時に、ネット環境の飛躍的進歩によって、過去のジャズ音源からワールド・ミュージックに至る「多様な音源」に誰もが容易にアクセスできるようになった結果、ジャズ史の見直しを含んだジャズのハイブリッド化が進んでいるのですね。
そして前述したように、ヴォーカルの多用はポピュラリティの確保に繫がってもいるのです。つまりボサ・ノヴァは、知的なハイブリッド音楽であると同時にポピュラリティも備えた現代ジャズの傾向を、半世紀以上も前に先取りしていたと見ることができるのです。
“サウダージ”の魅力
それでは偶然とも思えるこの類似現象の背景を探りつつ、ボサ・ノヴァについておさらいをしてみましょう。
ボサ・ノヴァは、ブラジル南東部に位置する一大観光、港湾都市、リオ・デ・ジャネイロで生まれました。そしてジャズもまた、アメリカ南部カリブ海に繫がる港湾都市、ニューオルリンズで生まれ、北部の工業都市シカゴ、そしてアメリカの中心地ニューヨークで大発展した都会の音楽です。ボサ・ノヴァ、そしてジャズがともに都会的で洗練された音楽であるのは、こうした誕生地の立地条件に起因しているのですね。
ジャズもボサ・ノヴァも「知的で都会的」そして「洗練」された「融合音楽」であるという共通点は、ここまでの説明である程度ご理解いただけたかと思います。ただ、「優しさの感覚」の理由は、時代の違い、風土の違いを反映し、両者ではちょっと違っているといっていいでしょう。現代ジャズは、冷戦終結後の錯綜した世界情勢をクールに眺める冷静な視点を背景とした、多様性を認める知的な態度が「優しさ」の感覚の背後にあるのに対し、ボサ・ノヴァがもつほのぼのとしたテイストは、ブラジルの歴史・風土、そしてポルトガル語特有の柔らかな語感がもたらしているようです。このボサ・ノヴァならではの「ほのぼの感」が私たち日本人の琴線に触れるのではないでしょうか。
というわけで、第7号「ボサ・ノヴァ・ヴォーカル」、第30号「同vol.2」、そして第31号「アントニオ・カルロス・ジョビン」に続く今回の「ボサ・ノヴァ・ヴォーカル・コンプリート」では、日本人好みともいえるボサ・ノヴァならではの「優しさの表現」に焦点を当ててみたいと思います。このボサ・ノヴァ特有のテイスト、感覚を、ポルトガル語では「サウダージ」というそうです。
ブラジルは典型的な人種融合国家です。1492年にイタリア人のコロンブスがアメリカ大陸に到達し、1500年にはポルトガル人、ペドロ・アルヴァレス・カブラルが南米大陸のブラジルを「発見」しました。以後ブラジルはポルトガルの植民地となるのですが、当然それ以前からインディオと呼ばれた先住民たちが大勢住んでいました。また、植民地経営のための労働力不足を補うため、アフリカ大陸から大勢の黒人たちが奴隷としてブラジルに連れてこられました。
興味深いのは、植民地時代を通じ、ポルトガル人、先住民族、そしてアフリカからの黒人たちの融合が進んでいったことです。人種融合に不寛容だったプロテスタントが築いた北米のアメリカ合衆国では考えられないことですが、世界最大のカソリック信者を擁する国、ブラジルならではの寛容さの表れなのでしょうね。加えて1888年に奴隷制度が廃止されてからは、労働力を補うためイタリアはじめヨーロッパ各地から多数の移民がブラジルに入植し、なかでも勤勉な日系人はブラジルで一大勢力を築いています。
こうした「異国の人々」が故郷のポルトガル、アフリカ、そしてヨーロッパ、日本を想う、懐かしくも心温まるちょっと感傷的な気分が「サウダージ」なのだそうです。また、同じカソリック国であるスペインの、ラテン植民地における過酷な統治に比べ、ポルトガルは相対的に人種・文化の融合に寛容だったことがブラジルの国民性としての「サウダージ的気分」、そしてボサ・ノヴァを含むブラジル音楽のほのぼのとしたテイストに表れているようなのです。
思うに「サウダージ感覚」に含まれる淡い哀愁感こそが、私たちがボサ・ノヴァに惹かれる大きな理由のような気がします。とはいえ、ひと昔前の日本の歌謡曲に見られる「哀愁感覚」と、ボサ・ノヴァのそれとはひと味違うのも事実です。というか、同じであればむしろ「憧れ」の感情は湧きにくく、ちょっと違うエキゾチシズム感覚の中に潜む「同質性」こそが魅惑の源泉なのではないでしょうか。
美空ひばりの哀愁感覚
というわけで、まずは「日本の哀愁」とは何か探ってみましょう。もちろん万人が認める日本人の哀愁観などというものはないので、あまり異論が出ないであろうサンプルを考えてみました。1960年(昭和35年)に発表された船村徹作曲、石本美由紀作詞による美空ひばりの「哀愁波止場」です。
これを日本の「哀愁感覚」のサンプルとした理由はいくつかあります。まずはタイトルですね。「哀愁」の文字があり、それが「波止場=港」であるというところです。ボサ・ノヴァ発祥の地リオ・デ・ジャネイロもまた港でした。しかし曲想はボサ・ノヴァとはまったく別物です。その件は後回しにするとして、まだまだこの楽曲を日本の哀愁のサンプルとした理由があるのです。なんといっても歌っているのが日本を代表する国民的大歌手、美空ひばりであること、そしてこの楽曲が第2回日本レコード大賞を受賞し、第11回NHK紅白歌合戦で歌われたという実績です。また時代背景もボサ・ノヴァの流行と一致しているのですね。この楽曲が発表されたのは、初めてのボサ・ノヴァ楽曲といわれたアントニオ・カルロス・ジョビン作曲、ヴィニシウス・ジ・モライス作詞による「想いあふれて」が録音された58年の2年後に当たるのです。
機会があれば聴いていただきたいのですが、「哀愁波止場」は、哀愁を帯びた典型的なマイナー調です。そして歌詞の内容は、船乗りと思しき男性を港で待っている女性の哀感で、注目すべきは途中に熊本県の民謡「五木の子守唄」が引用されていることです。この楽曲は、日本の伝統音楽との繫がりも示しているのですね。付け加えれば「五木の子守唄」は「子守唄」と称されていますが、子供をあやすというよりは「子守娘」の悲しい想いを歌っているのです。つまり日本の哀愁は、どちらかというと悲しみの感情に満たされているようなのですね。
哀愁感覚という香辛料
そしてボサ・ノヴァです。「想いあふれて」もそうですが、今回収録した楽曲が醸しだす「哀愁感」は、必ずしも全面的にマイナー調=悲しさ、侘しさの感覚というわけではなく、言ってみれば「一抹の哀感」なのですね。これを「サウダージ」の感覚に引き付けてみれば、ブラジル人の「望郷の念」は、必ずしも「悲しさ」というわけではない「故郷を懐かしむ気持ち」や、「淡い想い出」の「ほのぼのとした感情」がその原点にあるようなのです。
ボサ・ノヴァが醸しだす一抹の哀感は、日本人好みの哀愁メロディではあるのですが、必ずしも悲しみに彩られているわけではない明るさを秘めたエキゾチシズムがいいのですね。この好ましい楽天性はブラジルの豊かな風土・大地の賜物なのかもしれません。
そしてリズムです。サンバを基調としたボサ・ノヴァの軽快なリズムには、いやでも心を弾ませる前向きな躍動感が満ちています。陽気で楽天的、しかしただ能天気というわけではない微妙な哀愁感覚が音楽の好ましい香辛料となっているのですね。
こうした繊細で優しさに満ちた微妙な音楽ができあがった背景には、必ずしも受けること、売れることだけを狙ったわけではないアマチュア精神と、それを音楽的に洗練させた優れた音楽家たちの共同作業があったからなのです。
文/後藤雅洋(ごとう・まさひろ)
日本におけるジャズ評論の第一人者。1947年東京生まれ。慶應義塾大学在学中に東京・四谷にジャズ喫茶『い~ぐる』を開店。店主としてジャズの楽しみ方を広める一方、ジャズ評論家として講演や執筆と幅広く活躍。ジャズ・マニアのみならず多くの音楽ファンから圧倒的な支持を得ている。著者に『一生モノのジャズ名盤500』、『厳選500ジャズ喫茶の名盤』(ともに小学館)『ジャズ完全入門』(宝島社)ほか多数。
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