◎No.16:泉鏡花の兎の置物
文/矢島裕紀彦
神経症と言っていいくらいの、独自の気の遣い方であった。極度に黴菌(ばいきん)を恐れ、酒はぐらぐらと煮立てた熱燗ならぬ煮え燗。もちろん、刺し身など見るのも嫌。豆腐の「腐」の字さえ忌避して「豆府」と書いた。
いざ執筆の前には、御神酒徳利の水差しで、原稿用紙にお清めの水をふりまく。言葉に宿る霊魂を信じ、書き損じの抹消部分は、言霊(ことだま)の蘇ってくることのないよう黒々と塗りつぶした。
『高野聖』『歌行燈』などに見られる絢爛たる美文、幽玄の作品世界も、こんな鋭敏に過ぎる神経を持つ泉鏡花ならでは、紡ぎ出せたものであったろう。
そして、兎の置物のコレクション。鏡花の生まれ故郷・金沢には、自分の干支から7番目に当たる動物を集めると出世するという言い伝えがあった。それ故に、憑かれたように集めた兎の数は膨大。多くの遺品や生原稿が文学資料として寄贈される中、手放しがたく神奈川逗子市の泉名月さん(鏡子の姪)のもとに残されたものだけで、なお50体を超えるという。
形や大きさはさまざま。読みつがれ、演じつがれる鏡花文学の行く末を、見守るが如き目線を持つ兎たち……。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。『サライ.jp』で「日めくり漱石」「漱石と明治人のことば」を連載した。
写真/高橋昌嗣
1967年桑沢デザイン研究所 グラフィックデザイン科卒業後、フリーカメラマンとなる。雑誌のグラビア、書籍の表紙などエディトリアルを中心に従事する。
※この記事は、雑誌『文藝春秋』の1997年7月号から2001年9月号に連載され、2001年9月に単行本化された『文士の逸品』を基に、出版元の文藝春秋の了解・協力を得て再掲載したものです。