文/矢島裕紀彦

今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。

【今日のことば】
「あなたは猫の中でよく奥様のことを御書きになりますがあれは少しひどいと思いますよ」
--大塚楠緒子

大塚楠緒子は、漱石の学生時代からの友人で美学者である大塚保治の妻。『吾輩は猫である』が世間の評判となっていたある日、漱石が大塚家にあそびにいくと、楠緒子は漱石に掲出のことばを投げかけ、さらにこうつづけたという。

「私ならあんな書き方に対してはきっと憤慨しますよ」

文中の「猫」は、もちろん小説『吾輩は猫である』を意味する。

これはつまり、漱石がこの作品の中に、鏡子夫人を連想させる苦沙弥の細君を登場させ、苦沙弥とこんな会話をさせていることを言っているのである。

主人「その風はなんだ、宿場女郎の出来損ないみたようだ。なぜ帯をしめて出て来ん」
細君「これで悪るければ買って下さい、宿場女郎でも何でも盗られりゃ仕方がないじゃありませんか」
主人「帯までとって行ったのか、ひどい奴だ。帯はどんな帯だ」
細君「どんな帯って、そんなに何本もあるもんですか、黒繻子(じゅす)と縮緬の腹合せの帯です」
主人「黒繻子と縮緬の腹合せの帯一筋--価はいくら位だ」
細君「六円位でしょう」
主人「生意気に高い帯をしめてるな。今度から一円五十銭位のにしておけ」
細君「そんな帯があるものですか。それだからあなたは不人情だというんです。女房なんどは、どんな汚ない風をしていても、自分さいよけりゃ、構わないんでしょう」

この会話の下敷きとなっているのは、実際に夏目家に泥棒が入ったという事件なのだが、小説だから大分滑稽味がまぶしてある。細君もどこかトボけた調子だ。楠緒子とすれば、同じ「女房」の立場から、ひとこと物申しておきたかったのだろう。

漱石は大塚家でのこの出来事を門弟の野間真綱に話し、「一本決めつけられたよ」と笑っていたという。

大塚楠緒子は明治8年(1875)東京に生まれ、女子高等師範附属高等女学校を首席で卒業。歌を詠み小説も書く才媛だった。漱石も、東京朝日新聞と楠緒子の間を橋渡しして、連載小説の掲載を実現している。

一方で楠緒子は美人の誉れ高く、漱石も鏡子に向かって「あれは俺の理想の美人だよ」などと語り、少しばかりヤキモチを焼かせていた。

明治43年(1910)11月13日、胃潰瘍のため長与胃腸病院に入院中の漱石は、楠緒子の突然の訃報を聞く。享年35。漱石はその死を悼みこんな句を捧げた。

「有る程の菊抛(な)げいれよ棺の中」

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。

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