今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「春は空からそうして土から微(かすか)に動く」
--長塚節
上に掲げたのは、茨城の農村に生まれた長塚節が、貧しい農民生活の細部を描き出した長篇小説『土』の中に綴ったことばである。自然とともに暮らす人の感性が、素朴な表現の中に息づいている。
長塚は正岡子規門下の歌人として出発。写生の精神を基礎にした歌づくりに励みながら、雑誌『ホトトギス』に散文作品を発表した。そんな長塚の文章に目をとめた漱石の推挙により、明治43年(1910)6月13日から11月17日まで東京朝日新聞に連載されたのが『土』である。
長塚は几帳面な性格。後年、東京の病院に入院中、実家あてに書いたこんな手紙が残っている。
「帳場の本箱の一番上の左手にある二冊ある『土』を一冊、卓袱台の上の北側にある『芋掘り』二冊と一つにして御送り願上候。(略)右本を取り出したらあとは必ずもとの様に片付けて置いて下さい。そうしないと私がこちらにいても不快でなりません」
書庫から資料を引っ張り出してそこら中に積み上げては、つい戻し忘れ、雑然とした書斎の中で仕事をしている筆者などとは、大違いである。
長塚はこの小説を書くに当たっても、自身の体験のみに寄り掛からず、周辺の農村生活を改めて実地に確かめ直したという。
大正元年(1912)、この小説が単行本として刊行される際、漱石は『「土」に就て』と題する序文を寄せている。その一節。
「かような生活をしている人間が、我々と同時代に、しかも帝都を去る程遠からぬ田舎に住んでいるという悲惨な事実を、ひしと一度は胸の底に抱き締めて見たら、公等(こうら)のこれから先の人生観の上に、また公等の日常の行動の上に、何かの参考として利益を与えはしまいかと聞きたい。余はとくに歓楽に憧憬する若い男や若い女が、読み苦しいのを我慢して、この『土』を読む勇気を鼓舞する事を希望するのである。余の娘が年頃になって、音楽会がどうだの、帝国座がどうだのといい募る時分になったら、余は是非この『土』を読ましたいと思っている」
実際、漱石の娘たちは、ある年頃を迎えると、『土』を読まされたという。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。