歴史作家・安部龍太郎氏による『サライ』本誌の好評連載「謎解き歴史紀行〜半島をゆく」とは別に、歴史解説編を担当する歴史学者・藤田達生先生(三重大学教授)は、元亀4年(1573)7月に15代将軍の足利義昭を追放したことが室町幕府滅亡とする教科書などの通説に異を唱える藤田先生は、天下統一事業の画期を、紛争当事者としての平定戦から、遠隔地の大名間の所領紛争への積極的な介入へと変化した天正8年(1580)と考える。

鞆の浦

津之郷を地元古老の案内で巡る歴史作家の安部龍太郎氏(左)と、藤田達生(中央)。

鞆の浦に訪問したのを機会に、足利義昭の亡命政権「鞆幕府」についてふれてきた。

元亀4年(1573)7月における足利義昭の追放による室町幕府の滅亡、その直後の天正改元による革新的かつ強大な織田政権の誕生という図式は、現在も教科書に記される通説である。その誤りを指摘したのである。これを機に、明治時代以来の室町幕府滅亡に関する通説について考えてみたい。

天正元年室町幕府滅亡説と織田政権革新説

これに関しては、明治時代の東京帝国大学教授で日本史研究のパイオニアとして知られる田中義成(1860~1919年)の研究に耳を傾けよう。

田中は、「抑〃(そもそも)信長が義昭を若江に逐(お)い、京都に凱旋し、俄(にわか)に改元を奏請するは、此時を以て信長は全く足利氏に代わりしものなれば、其真意は革命的意義を以て、年号を改めたるものと見るを得べし、故に足利幕府と織田時代との時期を画するには、実に此時を以てすべきなり」(『織田時代史』)とし、さらには「豊臣秀吉の事業を大観するに、其根本精神は織田信長の偉業を継承せるものに過ぎず」(『豊臣時代史』)とさえ評価したのである。

天正元年室町幕府滅亡説と織田政権革新説は、この田中説が有力な発信源になっている。これについては、戦後の歴史学界においてさえ、時代区分論に直結する重大な問題であるにもかかわらず、「常識」として正面から議論されたことがなかった。

明治の時代精神によって創造された歴史像は、戦後70年を経た現代人の歴史観まで、深く刻印しているのである。マルクス主義に支えられた戦後歴史学も、信長の尾張という一地方の小大名から台頭した希代の改革者としての側面を強調したことから、戦前のアカデミズム(官製)史学を根本から克服することはできなかった。
室町幕府は、いつ滅亡したのだろうか。私は田中説とは逆に、宇治槙島城合戦において、信長が敗者義昭を処断することができなかったことに注目するべきだと考える。計算高い信長が、慈悲心から死罪を免じたとは考えられない。

要するに、この時点で将軍を必要としない独自の武家国家像や新たな価値観を打ち出していなかったため、信長にとって義昭を抹殺するにはリスクが大きすぎたのだ。その直後から義昭の子息(後の興福寺大乗院門跡義尋)を奉じて、幕府体制を維持する姿勢を示していたことが、なによりもそれを物語っている。

義昭木像

ちなみに鎌倉幕府は執権北条高時の自殺が、江戸幕府は将軍徳川慶喜の大政奉還が、滅亡のメルクマールとされてきた。政権担当者の死もしくは権限委譲によって時代が移り変わったとするのであり、それなりに妥当な見方といってよい。

これに対して室町幕府の場合、義昭は亡命後も現職の将軍だったし、その権能である諸国の大名・領主に対する軍勢統率権はもとより、五山禅院の住持に対する任命権を保持していた。将軍の公式文書である御内書を発給し続けていたし、管見の限り天正7年までは京都を対象とする幕府奉行人奉書(室町幕府の公式文書)も発給している。

義昭の亡命幕府は、戦国時代の歴代将軍と同様に京都を離れても機能していたのであり、天正元年に滅亡したとは学問的に評価しがたいのである。したがって義昭の亡命から本能寺の変に至る10年に及ぶ過程は、西国でなお影響力をもつ「鞆幕府」と畿内から東国に広がる織田政権との角逐を中心に、段階的に論じられるべきである。

私たちは、戦国大名領国制の発展過程すなわち分権化の延長上に、天下統一すなわち集権化があることを、なんの矛盾もなく当然のことのように考えてきたのではないか。近年においても、天下人信長と秀吉や光秀らの数カ国を預かる国主級重臣との関係を、戦国大名と支城主の関係と同質とらえ、戦国大名領国制の延長とみる研究が発表されている。

時代を推進した分権と集権という二つのベクトルの向きは180度違うのであり、天下統一は決して必然の歴史過程などではなかった。統一戦とは、極端に言えば、織田信長以外の武将は誰も考えなかった「非常識」な戦争だったのではあるまいか。

なぜならば、近年の研究によって今川義元も武田信玄も天下を狙って西上戦を始めたのではないことが明らかになりつつあるし、諸大名にとって本領支配の安定化には直接関わらない遠征を始める必然性など、どこにもなかったからである。

集権化とは、戦国時代末期になってはじめて信長が意識的に推進した政策だったことが重要なのだ。天下統一とは、天下人率いる武士団の精神構造も含めた価値観の転換があってなしえたもので、信長や秀吉の改革については奇跡的とさえ言えるのではないか、と筆者は考える。

たとえば島津氏や北条氏あるいは伊達氏といった大大名は、室町幕府にかわる武家政権を樹立することをめざしたのだろうか。九州や関東・奥羽で進みつつあったゆるやかな統合は、あくまでも地域の自立すなわち分権化へと向かうものだったし、畿内近国を支配し将軍を追放するほどの実力を誇った三好長慶さえ、全国制覇など考えたこともなかっただろう。

それならば、なぜ信長は天下統一をめざしたのだろうか。これまでの研究史を紐解いても、自明のごとく天下統一を戦国時代の必然的ゴールとしていたから、解答は得られない。頑迷と言ってもよい「常識」に遮られて、私たちは信長の政治改革の本質から目を閉ざしてきたのだ。

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