今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「金を作るにも三角術を使わなくちゃいけないというのさ--義理をかく、人情をかく、恥をかく、これで三角になるそうだ」
--夏目漱石
夏目漱石が小説『吾輩は猫である』の中に書き込んだ一節である。漱石自身がモデルとされる学校教師の珍野苦沙弥は、昔の下宿の自炊仲間で今は実業家となっている鈴木藤十郎を客に迎えて、
「僕は実業家は学校時代から大嫌だ。金さえ取れれば何でもする」
と、手厳しい台詞を投げつける。
これを受けて、鈴木は掲出のようなことばを返し、「そのくらいにせんと金は溜まらんという喩(たとえ)さ」と解説する。冗談めいた言い回しだが、実相の一面をとらえたものでもあったろう。
急速に近代化を突き進む明治の日本は、裕福な実業家の階級と、日々の暮らしにも困窮する貧民層と、大きな格差が生まれつつあった。それは労働の質や量に比例するものではなく、そのひずみを修正する社会的な仕組みも、まったくといっていいほど整備されていなかった。
漱石は、小説世界に「猫の目」を入れることで、そんな近代社会の矛盾に縦横に切り込んでいく。台詞の語り手は人間(登場人物)であっても、そこに猫の目が介在することで風通しがよくなり、表現の自由度が格段に上がっている。
ついには物語中に、やがて、たいていの人間は自殺願望を持ち、警察官がこれを助けるようになる、という強烈過ぎる諷刺まで登場する。
「今の人間は生命が大事だから警察で保護するんだが、その時分の国民は生きてるのが苦痛だから巡査が慈悲のために打ち殺してくれるのさ」
この諷刺は、100 年後の今にも無気味に響く。現代の日本の自殺者は、年間2万数千から3万人ほどにのぼるという。
生きているのが苦痛な社会であっては、ならない。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。