文・写真/片山虎之介
ひとそれぞれ、様々な年越し蕎麦の食べ方があると思うが、今回は、我が家の年越し蕎麦がどのようなものであるか、お伝えしよう。
蕎麦に関する仕事が多いため、一年の間には、いろいろな蕎麦に出会う。ここでいう「蕎麦」とは、麺線に仕上げた「蕎麦切り」だけでなく、蕎麦の「実」も含まれる。「幻の蕎麦」などと呼ばれる珍しい蕎麦や、幻どころではなくて、「あるはずのない蕎麦」に出会うことすらあるのだ。
一年の締めにいただく蕎麦なのだから、できれば、その中で、いちばん美味しかった蕎麦や、印象に残った蕎麦を味わいたい。そこで今年は、強く印象に残った蕎麦の「実」で、蕎麦切りを作って食べようと思っている。
今年いちばんの蕎麦の実は、分類からいえば在来種になる。在来種とは、昔からその土地で、長い間栽培され続けてきた蕎麦をいう。つまり品種改良されていない、昔ながらの蕎麦である。
蕎麦はなぜ品種改良するのかというと、いろいろな目的があるが、同じ面積から穫れる収量を増やしたり、病害虫に強い品種を作ったり、大量に栽培して収穫する際の作業効率を良くするために人の手が加えられることが多い。
品種改良された蕎麦は、どの実も同じ個性を持つようになる。播いた種は同じ時期に発芽し、同じ時期に花が咲き、同じ時期に熟して収穫適期をむかえる。そうするとコンバインで一斉に刈り取る際、すべてが同じように熟しているので、効率良く収穫できるのである。
それに対して在来種の蕎麦というのは、逆の性格を有している。播いた種は、早く発芽するものもあれば、遅く芽を出すものもある。草丈が高く伸びるものもあれば、背の低いものもある。早く実るものもあれば、ゆっくりと熟していき、他の実が黒く熟しても、まだ緑色のものもある。
こうした在来種の特徴を、「雑駁(ざっぱく)」であるという言い方をする。
■日本蕎麦の美味しさは「雑駁」のハーモニーにあり
雑駁とは、様々なものが入り混じっている意味で、統一がとれていない状態を指す。在来種は雑駁であるという言い方をするとき、あまり良い意味では使われていないようだ。
実が熟す時期がバラバラだと、コンバインで収穫する際、未成熟な実が混ざるので、収量が落ちる。だから在来種は良くない、という論法になる。
しかし、食味の面からみたとき、私はこの「雑駁」の中にこそ、美味しさの秘密があると思っている。
例えばコーラスを例にとって考えてみよう。合唱はソプラノ、アルト、テノール、バスなど、様々な個性が混在するから、厚みのある美しい和音が生まれる。これがバスだけの合唱になったら、ちょっと違った音楽になるだろう。
在来種の雑駁とは、この多彩な個性が混在している状態だと、私は思っている。昔から愛されてきた日本蕎麦の美味しさは、在来種の雑駁さの中にこそ隠されているのだ。
我が家では今年、際立って印象に残った、ある在来種を使って、年越し蕎麦を作ろうと思っている。この蕎麦は実に扱いが難しく、他の在来種とも、まったく違った扱いをしないと美味しさが引き出せない。強い個性を持った材料(蕎麦の実)ほど、その持ち味を生かすには、慎重な作業が必要となる。
■在来種×粗挽き×生粉打ち×一本棒・丸延し
ここから先は詳しく書くと、読者があくびをしてしまう恐れがあるので、簡略に記すことにする。
付着した泥や埃を掃除した蕎麦の実を、石臼にかけて、ごろごろと挽く。同じ蕎麦の実の殻をむいたものも、何割かブレンドして、さらにごろごろと挽く。それをふるいにかけたり、重さを計ったりして、最終的に目指す個性を持った蕎麦粉に仕上げる。
そうして仕上げた蕎麦粉を、「一本棒・丸延し」という、昔ながらの技法で蕎麦に打つのだ。
出来上がった写真をご覧いただきたい。
これが、在来種・粗挽き・生粉打ち(十割蕎麦)の、我が家の年越し蕎麦だ。まさに世界で一枚の、手製の蕎麦である。
蕎麦好きの方には、ぜひ、この楽しみを体験していただきたい。自分で作る蕎麦の美味しさを一度味わったら、年越しには石臼を回さずにはいられなくなることを保証しよう。
文・写真/片山虎之介
世界初の蕎麦専門のWebマガジン『蕎麦Web』(http://sobaweb.com/)編集長。蕎麦好きのカメラマンであり、ライター。伝統食文化研究家。著書に『真打ち登場! 霧下蕎麦』『正統の蕎麦屋』『不老長寿の ダッタン蕎麦』(小学館)、『ダッタン蕎麦百科』(柴田書店)、『蕎麦屋の常識・非常識』(朝日新聞出版)などがある。