神奈川県川崎市にある『入船』は、今では珍しい出前専門の蕎麦店だ。店舗を構えてはいるが、ここで客が食事をすることはない。すべて注文を受けた商品を、バイクで配達するシステムで運営している。

文・写真/片山虎之介

春は引越しの季節である。私の隣りの家の住人も転居し、住んでいた家は売りに出された。

2か月間ほど空き家だった家に買い手がつき、先日、20代のご夫婦が、4歳の男の子を伴って、我が家に引越しのご挨拶にみえた。明るい、感じの良いご夫婦で、安心した。ご近所に、若い人たちが住んでくださるということは、うれしいものである。

今の季節はこんなふうに、あちこちで引越しの挨拶が交わされているのだろう。

ところで、引越し蕎麦という言葉があるが、私は半世紀以上に渡って生きていながら、残念ながら引越し蕎麦というものを食べたことがない。これは、私だけの特別な状況なのか、それとも世の中では、引越し蕎麦の習慣そのものが途絶えてしまったのか、よくわからない。

妻にも聞いてみた。彼女は関西の生まれだが、故郷にいるときも、東京に来てからも、引越し蕎麦を食べたという話は、一度も聞いたことがないとの返事だった。

いったい引越し蕎麦とは、どういうふうに差し上げたり、いただいたりするものなのか。そのマナーさえ、体験したことがないから、まったくわからないのだ。

そこで、引越し蕎麦とは、いかなるものなのか、調べてみた。

*  *  *

まず、新島繁さんの『蕎麦の事典』によると、引越し蕎麦は、江戸中期ごろから始まった、江戸を中心にした習慣だという。関西には、この習慣はない。

当時江戸では、引越しした際に、ご近所には蕎麦をふたつずつ、大家さんには5つを配って挨拶したとのこと。大正12年に起こった関東大震災のころまでは、ごく一般のこととして行われていたと記されている。

他の文献も当たってみると、少しずつ、引っ越し蕎麦のことがわかってきた。

明治維新から大正時代は、たしかに引越し蕎麦は、転居の際には欠かせないものとして定着していたようだ。引越ししてきた人が近所の蕎麦屋さんに依頼すれば、蕎麦屋さんは心得ていて、隣近所や大家さんに、2枚、5枚と決まりの数量を出前して、代金は移転してきた家に請求するというものだった。

江戸の昔にさかのぼると、天保6年(1835)に発行された『街廼噂』(ちまたのうわさ)という本には、江戸で引越しの際に蕎麦を配る理由は、二八蕎麦は2つでわずか32文、安上がりに済むことから始まったと書かれている。

また、江戸中期の国学者であった津村淙庵(つむらそうあん)が著した『譚海(たんかい)』には、江戸時代の第115代天皇である桜町天皇が、116代の桃園(ももぞの)天皇に譲位され、延亨4年(1747)に新造した上皇の御所に移られた際に供御(くご)として蕎麦を召し上がった、ということが記されている。

これは聞き書きという形で書かれているが、皇室でも江戸中期に、渡座(わたまし=貴人の転居)の際に引っ越し蕎麦が行われたという貴重な記録である。

*  *  *

これほど歴史のある引越し蕎麦なら、私たちの時代に絶やすわけにはいかない。近いうちに自分で蕎麦を打ち、挨拶返しに、お隣りの若いご夫婦にお届けしようと考えている。

逆・引越し蕎麦になるかもしれないが、それでいい。ここから始まって細く長く、お付き合いくださいという気持ちが伝わればいいのだから。

この記事をお読みの皆さんも、引越し蕎麦の古き良き伝統をよみがえらせて、殺伐とした現代の人間関係を、つながりの良い、しなやかでコシのあるものにしていこうではありませんか。

【今日のカバー蕎麦店】
『入船』
■住所/神奈川県川崎市川崎区昭和2-6-9
■電話/044-299-1395

文・写真/片山虎之介
世界初の蕎麦専門のWebマガジン『蕎麦Web』(http://sobaweb.com/)編集長。蕎麦好きのカメラマンであり、ライター。伝統食文化研究家。著書に『真打ち登場! 霧下蕎麦』『正統の蕎麦屋』『不老長寿の ダッタン蕎麦』(小学館)、『ダッタン蕎麦百科』(柴田書店)、『蕎麦屋の常識・非常識』(朝日新聞出版)などがある。

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