女流歌人・小式部内侍(こしきぶのないし)は、和泉式部(いずみしきぶ)の娘としても知られています。和泉式部の美貌と才能を受け継ぎ、恋と歌に生きながら、20代後半で亡くなった小式部内侍。若くして名声を得た彼女の和歌を味わってみましょう。

小式部内侍『百人一首画帖』より
(提供:嵯峨嵐山文華館)

目次
小式部内侍の百人一首「大江山〜」の全文と現代語訳
小式部内侍が詠んだ有名な和歌は?
小式部内侍、ゆかりの地
最後に

小式部内侍の百人一首「大江山〜」の全文と現代語訳

小式部内侍の代表歌が、以下です。

大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立

『小倉百人一首』の60番です。現代語訳は、「大江山を越えて行く生野へ道のりが遠いので、まだ天橋立へ行ったことはありませんし、ましてや母からの手紙など見てはおりません」

天橋立のある丹後へ行くには、大江山を越え、生野の里を通りました。大江山は丹後の大江山ではなく、亀岡の大江山(大枝山)だろうと思われます。

「いく野の道」は、「野を行く」と「生野」の掛詞(かけことば)。「まだふみもみず」は、「踏み」と「文」を掛けています。つまり、丹後の地を踏んだこともなければ、まだ手紙も見てはいない、という意味。さらに「踏み」は橋の縁語(えんご)でもあり、天橋立に掛かります。この歌を詠んだのは、小式部内侍が10代半ばの頃であったと考えられています。

小式部内侍『百人一首画帖』より
(提供:嵯峨嵐山文華館)

この和歌が誕生した背景

『金葉和歌集(きんようわかしゅう)』の詞書(ことばがき)によると、ある日、小式部内侍は歌合わせに招かれますが、その頃、母の和泉式部は夫とともに丹後国に赴いていて不在でした。そこで、同じ歌合わせに招かれていた藤原定頼が、「歌は如何せさせ給ふ。丹後へ人は遣しけむや。使、未だまうで来ずや。いかに心もとなくおぼすらむ(歌はどうするのですか? 丹後に使いは出されましたか? まだ使いは帰ってこないのですか? どれほど心もとなくお思いでしょうね)」とからかいました。

そのとき、小式部内侍が即興で詠んだのがこの歌。早熟な才能に溢れていた小式部内侍には、和泉式部による代作疑惑があったよう。その疑惑を晴らした小式部内侍の見事な和歌に対して、定頼は返歌もできず立ち去ったといわれています。

ところで、小式部内侍と定頼は恋愛関係でした。この歌が詠まれた頃には、どういう関係だったのでしょうか。

小式部内侍が詠んだ有名な和歌は?

「大江山〜」以外の代表的な和歌を紹介します。

1: 春のこぬ ところはなきを 白河の わたりにのみや 花はさくらむ

「春の来ないところはないのに、白河のあたりにだけ花は咲くのでしょうか。私の家も花は咲いておりますのに」

『詞花集』の詞書に、「二条の関白しら川へ花見になむといはせて侍りけるがよめる」とあります。二条の関白とは藤原教通(のりみち)のことで、教通に花見へ行こうと誘われたときの返歌。「白川のあたりにしか花は咲いていないのですか?」と少しすねた様子が魅力的な歌です。

ちなみに、藤原教通は藤原道長の五男。小式部内侍は、道長の次男・頼宗にも愛されていたといいます。

2:死ぬばかり なげきにこそは 歎きしが 生きてとふべき 身にしあらねば

「私こそ死んでしまいそうなくらい嘆きに嘆いておりました。生きているうちにあなたのもとへ行き、見舞いのできる身の上ではありませんので」

「生きて」は「行きて」の掛詞。あなたのそばへ行けないという身分違いの恋を歌っています。

この歌も教通へ向けて詠んだもの。『宇治拾遺物語』によると、大二条殿(藤原教通)が、小式部内侍に対して「私は病気で死にそうだったのにどうして見舞いに来なかったのか」と問うたときに、小式部内侍が返した歌です。

3:いかにせん いくべきかたも 思ほえず 親に先立つ 道を知らねば

「どうしましょう、どこへ行けばいいのかわかりません。親に先だって死ぬという(親不孝の)道を知らないので」

「親に先だって死ぬという不幸を思うと、どうしたらよいか途方に暮れています」、とも訳すことができます。『古今著聞集』によると、小式部内侍が重い病気になって、もはやこれまでかという状態になったとき、そばにいた和泉式部を見て詠んだ歌。この歌を聞いて死神は去り、小式部内侍は回復したといいます。

小式部内侍、ゆかりの地

早くに亡くなった小式部内侍に、ゆかりの地は多くは伝えられていません。そのうち2か所を紹介しましょう。

1:天橋立

丹後国(現在の京都府宮津市)に位置する、日本三景のひとつ。全長約3.6㎞にわたって、細長い松林が、阿蘇海と宮津湾を隔てるように伸びています。その様子が天にかかる橋のようだというので、平安時代から多くの文人が訪れ、また歌に詠みました。京都丹後鉄道天橋立駅前に、「大江山〜」の歌碑があります。

2:清泉寺

母の和泉式部に先立ってしまった小式部内侍。京都府亀岡市の清泉寺には、娘の供養のために和泉式部が建てたとも伝わる五輪塔が残っています。

最後に

和泉式部とともに上東門院彰子に仕え、歌の才能を発揮した小式部内侍。貴公子たちとの華麗な恋愛の末、藤原教通との子を産み、のちに藤原公成(きんなり)と結婚して一男を授かりましたが、お産の直後に病死したと伝わります。享年27とも28とも。長く生きていれば、どれほどの歌人になったことでしょう。まさに佳人薄命の人でした。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)

文/深井元惠(京都メディアライン)
HP: https://kyotomedialine.com FB
校正/吉田悦子
アイキャッチ画像/『百人一首かるた』(提供:嵯峨嵐山文華館)

●協力/嵯峨嵐山文華館

百人一首が生まれた小倉山を背にし、古来景勝地であった嵯峨嵐山に立地するミュージアム。百人一首の歴史を学べる常設展と、年に4回、日本画を中心にした企画展を開催しています。120畳の広々とした畳ギャラリーから眺める、大堰川に臨む景色はまさに日本画の世界のようです。
HP:https://www.samac.jp

 

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