柴崎春通(画家、YouTuber)

─“絵画の楽しさ”を広める活動を世界180万人が支持─

「絵を描く時間は常に特別で新鮮なもの。それが“選択と決断の連続”だからです」

自宅のアトリエで水彩画を描く。故郷の風景を題材に選ぶことも多い。「用紙の“白”を巧みに残しながら、手早く色をのせていく技術が水彩画の醍醐味」と語る。

──「おじいちゃん先生」と呼ばれています。

「YouTubeの僕のチャンネルでの愛称ですね。平成29年に始めたのですが、今では登録者数が180万人近くになりました。それまで水彩画の講師を長く続けていて、息子から“YouTubeで絵を描く様子を見せてみたら。世界中の人に見てもらえるよ”と勧められたのがきっかけです。当初は、講師として教えていることを、みなさんに見てもらうのも面白いかもしれない、という軽い気持ちでした。水彩画を描く自らの技術を解説し、視聴者の方の絵を添削する様子を配信し始めたところ、その動画が欧米を中心によく見られ、再生数が一気に増えました」

YouTubeの世界へと導き、動画の編集作業も担う息子と。30歳の頃、旅行先の式根島(東京)にて。息子は動画編集だけでなく、SNSや個展などの企画・運営も行なっている。

──なぜ海外で支持されたのでしょう。

「やはり“絵画”というものが、ボーダーレスだからだと思います。たとえ言葉が通じなくても、絵を描く面白さは見ただけで分かる。また、欧米は時間をかけて描く油絵の文化が強いため、僕がクォリティの高い水彩画を短時間でスピーディに描いていく姿が、驚きをもって受け止められたようです。あとを追うように、日本の登録者数もみるみる増えていき、YouTuberとしてメディアに紹介されることが増えました」

──若者に人気の動画アプリ「TikTok」のフォロワーも100万人を突破しました。

「おかげさまで、SNSのInstagramやX(旧Twitter)のフォロワーも20万人以上。中国の若者に人気の動画共有サービス『ビリビリ動画』でも、45万人以上の登録者を得ることができています。コメントを読んでみると、“見ているだけで癒される”とか“心が落ち着く”といった言葉が多く並んでいます。おそらく、悩みを持っていたり、仕事などでストレスを抱えていたりする人たちが、家に帰ってきてから僕が絵を描いている姿を見てほっと一息つく。そこには、いつも楽しそうにニコニコと笑って絵を描いている“じいさま”がいる。好きなことに没頭している僕の姿が、見る人にとっての日々の癒しになっているのかもしれませんね」

──クレヨン画にも取り組み始めました。

「コロナ禍がきっかけでした。多くの人が自宅にいることが増え、僕が講師を務めていた水彩画の教室も休校になりました。そこで、水彩画よりも、もっと手軽に視聴者の方と一緒に絵を描ける何かがないかと考えたんです。辿り着いたのがクレヨンでした。多くの人が幼稚園や小学校で触れたことがあり、馴染み深い絵の具です。一方で、混色や重ね塗りなど、油絵のような多彩な表現が可能な面もある。クレヨンといえば“子どもが使うもの”と感じる人も多い。ですが、僕が“ここまで本格的な絵が描けるんだよ”とやって見せると、クレヨン画の奥深さに感動する人がたくさんいて、また大きな反響を集めました」

──クレヨン画の個展も初めて開きました。

「それまでたまに開いていた水彩画の個展に比べ、来てくださった方々は子どもからお年寄りまで、さらに幅広い世代になりました。北海道や海外から来てくれた人もいて、本当に嬉しかった。YouTubeの視聴者やSNSのフォロワーたちと、実際にお会いして話すのは本当に楽しい。僕の描いた絵を“生”で、間近で見てもらうことで、さらなる絵画の魅力に気づいてもらえたようです」

絵を描く際はスマートフォンを設置し、絵筆を持つ手元の動きを録画。速い時は2〜3分で仕上げる。息子らの編集作業を経て、自身のYouTubeチャンネルなどから配信する。
愛用の絵の具。クレヨン画が反響を呼び、大手文具メーカーとオリジナル商品も共同開発。「油彩のように重ね塗りなどがしやすく、大人が楽しめる道具を目指した」

──絵画との出会いは。

「小学生のときです。千葉の農家で生まれ育ったので、実家の周りは田んぼと畑ばかり。農繁期になると学校も休みになりました。僕は昭和22年の生まれ、ちょうど団塊の世代に当たります。子どもが多かった時代ですから、僕が朝から晩まで田んぼを手伝っている一方で、農家ではない子どもたちが団子になって近くを走り回っていたものです。それを見て、何とも羨ましい気持ちになりました。そんな僕にとって娯楽といえば、図書館で本を読むことだけ。学校が終わると、いつも図書館に行きました。初めは小説を乱読していたのですが、そのうち印象派の画集なども開くようになり、そこで見た本格的な絵画に、大きく心を揺さぶられたんです。それ以来、自分でも絵を描くようになりました」

「自分がいま、どのような状態かがキャンバスに描くと浮かび上がる」

──高校では美術部の部長を務めた。

「僕が入ったとき、部活はほとんど休部状態でした。そこで、周囲に声をかけて部員を集め直し、もう一度、最初から立ち上げるような形で活動を開始しました。でも、顧問の先生は日本画が専門だったので、油絵の描き方を教えてもらえるわけではありません。だから、自分で油絵の具を買ってきて、まずは手探りで描き始めた。文化祭の時期ともなれば、出展に向けて一生懸命に描いたものです。ただ、当時は自分がまさか絵を描く仕事に就くとは、考えたこともありませんでした」

──将来をどう描いていましたか。

「僕は農家の長男だったので、自分も農業をやるのだと漠然と思っていただけでした。とにかく父と母を手伝い、米を作ることで頭がいっぱいでした。でも、高校3年生のときに同級生が千葉県庁の就職試験を受けると聞き、“就職という道もあるのか”と思い立った。それで同じ試験を付き合いで受けてみたところ、合格したんです。ところが、“これから県庁みたいなところに入って、ずっと働き続ける人生でいいのだろうか”と、合格して初めて真剣に考えるようになった。そんなとき、友人のひとりが東京の電気関係の専門学校に行くと聞き、僕も親元を離れて都会に行き、好きなことに没頭してみたい。思う存分に絵を描いてみたいという思いに駆られたんです」

──両親は反対しませんでしたか。

「当然、両親は僕が家を継ぐものだと考えていたはずです。だから、東京に行くためには、地元から離れたことがない父を説得する必要がありました。悩んでいるうちに高校も卒業を迎え、田植えのある5月になりました。その作業中に思い切って、ぼそっと父に言ったんです。“東京に行ってみたい”と」

──どんな反応でしたか。

「意外にも、“東京に行きたいのか。それなら行った方がいい。米を送ってやるから”と、穏やかな口調で言ってくれました。言葉にこそ出しはしませんでしたが、父は僕のことを本当に可愛がってくれました。“好きなことをして生きてほしい”という気持ちが、父の表情から伝わってきました。

農家の長男だった父も、若い頃は都会に出たいと夢見た時期があったのだと思います。でも、父は故郷を出ることは叶わなかった。息子には同じ思いをさせたくなかったのかもしれません。無口でしたが、何かと気にかけてくれました」

──美術大学受験の予備校に通いました。

「学校は東京の阿佐ヶ谷にありました。教室に行くと、何浪もして芸大を目指している同世代がたくさんいたものです。僕の絵はそれまで自己流でしたから、彼らの描き方や絵のレベルの高さを見て、これは大変なところに来てしまったと思いましたよ」

──どんな勉強をしたのですか。

「まずは新宿の美術用品店に行き、ブルータスの石膏像を買いました。像を背中に背負って帰り、アパートの部屋にどんと置いたのです。しかし、僕が暮らしていたアパートは三畳ひと間。石膏像を置いたら絵を描く場所がない(笑)。だから、廊下にキャンバスを立て、デッサンをしていました。授業ではとにかく朝早く教室に行き、いちばん絵の上手い人の後ろに座る。描き方を真似するためです。あの頃は友達も作らず、午後はアルバイト、夜遅くにアパートに帰ってきて、また廊下からデッサン。そんな日々でした」

──画家としての将来に向けた手応えは。

「少しずつ感じていました。毎週、予備校でコンテストがあったんです。最初は箸にも棒にもかからなかったのですが、続けるうちにだんだんと結果が出るようになってきた。1年間の予備校生活の中で成績が上がり、受験をする頃には3番手くらいでしたかね。とにかく僕はコンテストに燃えるタイプ。絵を描くことで、“自分がいま、どのような状態か”がキャンバスに浮かび上がるのです。自分が成長していることを、目の前の作品を通して感じられるのが本当に面白かったですね」

「何歳になってもわくわくする。絵を描く喜びは決して失われない」

──絵画の通信講座の講師の道に進みました。

「予備校から大学の美術科へと進んだのですが、当時は学生運動が盛んだった時期。でも、僕は予備校時代と同じように友達も作らず、アパートと大学のアトリエを行き来し、絵を描いてばかりいました。相談相手もおらず、“自分はどのような絵を描いていくのか”と真剣に悩みました。就職のことなど考えず、日々、食うや食わずでとにかく絵を描いた。栄養失調で倒れそうになったこともあったほどです。そんななか、大学の教員に紹介されたのが、東京の大手出版社が始めたばかりの通信教育講座の仕事でした」

──どんな仕事だったのでしょう。

「生徒さんに課題を出し、提出された絵を添削してコメントを付けるといった内容です。初めはアシスタント、次第に認められてインストラクターに格上げされました。講座では最初、海外の講師のリーダーが、日本の画家に指導法を教えていました。僕はアシスタントとして入って、他の講師の指導を見てきたので、人物でも動物でも風景画でも人並みに教えられるようになっていたんです。水彩画と出会ったのは、ここで講師をしていた頃です。海外のインストラクターが描く水彩画の素晴らしさに感動しました。それまでやっていた油彩とは異なり、手早く色をのせながら描いていく面白さに惹きつけられました」

──海外に留学もしています。

「40代の頃は、バックパッカーとして世界中を歩き回りました。過労で倒れそうになるほど仕事が忙しく、自分の好きなことをする時間を持ちたいと思ったからです。40か国くらいを回り、子どもの頃、図書館で読んだ画集に出てきた風景を探しました。50代になってから、アメリカに留学しました。絵を描くことを楽しめるようになったのはこの頃からだったと思います。年に2~3回のペースで、自分の個展も開きました」

──今も個展に向けて描き続けています。

「普段の生活は静かなものです。気が向いたときにのんびり絵を描き、畑仕事や猫と戯れるような日々。でも、絵を描く時間は、常に特別で新鮮なものです。なぜなら、絵画とは“選択と決断の連続”だからです。絵の具をのせるたびに、次はどちらの道に進もうか、と考えながら進んでいく。決して引き返すことはできません。そんな緊張感を味わいながら、自分の中にあったイメージがひとつずつ具現化されていく。作品が出来上がったときの喜びは何物にも代えられません」

東京・銀座でのクレヨン画の個展にはYouTubeの視聴者を中心に多くのファンが押し寄せた。握手を交わしたり、記念撮影に応じたりしながら、作品を解説する。

──視聴者のためではなく、自分自身のために描いている。

「何歳になっても、絵を描く喜びは決して失われません。真っ新なキャンバスに向かうたびに、次はどんなことが起こるのだろうと、本当にわくわくします。そして、次々とキャンバスに表れる“いまの自分”を見つめる時間も楽しい。描いているときの感情が見事に作品に反映されますから。自分自身の“いま”と向き合う作業でもあります。そんな絵を描く喜びや楽しさを、YouTubeやSNS、個展を通して、世界中の老若男女にもっともっと広げていきたいと思います」

自宅の敷地内に菜園があり、果樹も育てている。アトリエで絵を描く傍ら、柚子などを収穫してジャムを作ることも日々の楽しみと語る。慣れた手つきで実を摘む。

柴崎春通(しばさき・はるみち)
昭和22年、千葉県夷隅町(現・いすみ市)生まれ。高校卒業後、阿佐ヶ谷美術学園(現・阿佐ヶ谷美術専門学校)で学ぶ。昭和35年に和光大学人文学部芸術学科を卒業。美術の通信講座で40年にわたり講師を務める。平成29年にYouTubeチャンネル「Watercolor by Shibasaki(柴崎春通の水彩画チャンネル)」を開設。世界約180万人の登録者を持つ人気チャンネルになる。日本美術家連盟会員。

※この記事は『サライ』本誌2024年5月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/稲泉 連撮影/吉場正和)

 

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