はじめに-宮部継潤とはどのような人物だったのか

2026年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、豊臣秀吉(演:池松壮亮)・秀長(演:仲野太賀)の周囲で活躍した武将たちにも注目が集まりそうです。その一人が宮部継潤(みやべ・けいじゅん、演:ドンペイ)です。

浅井長政(あざい・ながまさ、演:中島歩)の家臣として出発し、のちに織田信長(演:小栗旬)、さらに豊臣秀吉に仕えて重きをなした人物で、戦場だけでなく検地や政務の面でも才能を発揮しました。もとは比叡山の法師だったという異色の経歴も興味深いところです。

この記事では、宮部継潤が生きた時代と、その生涯の主な出来事をたどります。

2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、浅井長政を支える猛将として描かれます。

宮部継潤
宮部継潤

宮部継潤が生きた時代

宮部継潤が生きたのは、戦国大名どうしの争いが続く時代から、織田信長・豊臣秀吉による統一事業が進む時代への大きな転換期でした。近江国(現在の滋賀県)では浅井氏、六角氏、織田氏などがせめぎあい、やがて信長の勢力拡大によって各地の武将たちは大きな選択を迫られます。

継潤は、はじめ浅井長政に仕えました。しかし元亀2年(1571)には織田信長の家臣となり、旧主である浅井氏と戦うことになります。この転身は、当時の近江や畿内の情勢がいかに激しく動いていたかをよく示しています。

その後、天下統一事業を押し進める羽柴秀吉に仕えた継潤は、中国地方、九州、小田原など各地の戦いに加わり、さらに領国支配や検地にも関わりました。

宮部継潤の生涯と主な出来事

宮部継潤の生年は不詳です。慶長4年(1599)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。

比叡山の法師から武将へ

宮部継潤は、近江国浅井郡宮部の出身です。通称は善祥坊、また中務卿法印とも称しました。父は土肥刑部少輔真舜です。

継潤の前半生で特に目を引くのは、もとは比叡山の法師だったという点でしょう。のちに武士となって浅井長政に仕えたことを考えると、僧から武将へ転じた異色の経歴の持ち主でした。

戦国時代には、僧侶や山法師が武力を持つことも珍しくありませんでしたが、継潤はそこからさらに戦国大名の家臣となり、最終的には豊臣政権の重臣へと駆け上がっていきます。

浅井長政
浅井長政

浅井長政に仕え、のちに織田信長へ帰順

継潤は当初、浅井長政の家臣でした。しかし元亀2年(1571)に織田信長の家臣となり、旧主と戦ったと伝えられます。

この経歴は、継潤の生涯を考える上で大きな転機です。浅井氏と織田氏は、もともと婚姻関係を結んでいましたが、元亀元年(1570)に浅井長政が信長から離反すると、近江は激しい戦場となりました。その中で継潤は信長側に移り、以後は織田方の武将として歩みます。

なお、このとき一時は豊臣秀次を養子にしたともいわれています。

主君を変えたことだけを見れば非情にも感じられますが、戦国時代には情勢の急変の中で生き残りをかけた選択を迫られることが少なくありませんでした。継潤もまた、その現実の中で立場を変えた人物のひとりだったのでしょう。

織田信長
織田信長

羽柴秀吉に仕え、中国地方で活躍

のちに継潤は羽柴秀吉に仕え、中国征伐に加わります。天正9年(1581)、鳥取城が陥落すると、継潤は城代としてその地に入り、因幡方面の支配にあたりました。

鳥取城は、中国地方経略の上で重要な拠点でした。その城を任されるということは、継潤が単なる一武将ではなく、占領地の統治を担うだけの信頼を秀吉から得ていたことを意味します。実際、継潤は以後も因幡(現在の鳥取県東半部)・但馬(現在の兵庫県北部)方面で力をふるい、豊臣政権の地方支配を支える役割を果たしました。

ここで注目したいのは、継潤が秀吉のもとで軍事と行政の双方に関わっていることです。戦って勝つだけでなく、勝った土地を安定して治める力が求められる時代に、継潤はその能力を買われたのでしょう。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

九州征伐で武功をあげる

天正15年(1587)の九州征伐では、継潤は4,000人を率いて参陣しました。同年4月の高城の戦いで島津軍に決定的な敗北を与え、九州での軍功は継潤の名を高めた出来事のひとつといえます。

領地拡大と政務での重用

継潤は軍功だけでなく、政務能力でも高く評価されていました。天正16年(1588)の方広寺大仏殿造営では、因幡衆とともに3,000人の普請役を果たしています。さらに天正17年(1589)12月には、因幡国・但馬国で5万石を扶助され、役高4万石に対して2,000人の軍役が課せられました。

この数字からも、継潤が相応の大名級の軍事力と所領を有していたことがわかります。継潤は、秀吉の検地奉行も務めたとされます。太閤検地は豊臣政権の基盤を支えた重要政策ですから、その奉行を担ったことは、継潤が実務官僚としても有能だったことを示しています。

戦国武将というと、どうしても武勇ばかりに目が向きます。しかし継潤は、兵を率いる力と、土地や年貢を把握して政権運営を支える力の両方を備えた人物でした。そこに、秀吉から重く用いられた理由が見えてきます。

小田原征伐と朝鮮出兵の時代

天正18年(1590)の小田原征伐にも、継潤は加わっています。小田原征伐は、豊臣秀吉が天下統一を完成させる決定的な戦いでした。

その後、文禄元年(1592)の朝鮮出兵では、継潤自身ではなく子の長煕(ながひろ、兵部少輔)が渡海したとされます。このことからは、継潤が家の継承を意識しつつ、一門を豊臣政権の大事業に関わらせていたこともうかがえます。

名護屋城阯
名護屋城阯

晩年は家督を譲り、御咄衆として仕える

慶長元年(1596)12月、継潤は家督を子の長煕に譲りました。しかし、その後も奉行衆のひとりとして活動し、連署状に名を連ねています。さらに晩年は秀吉の御咄衆(おはなししゅう、御伽衆ともいう。将軍や大名の側にいて、話し相手や書物の講釈などをした人のこと)となりました。

そして慶長4年(1599)3月25日、継潤は亡くなりました。京都市上京区の廬山寺(ろざんじ)には、宮部継潤のものと伝えられる墓があります。

まとめ

武功だけでなく、統治や実務にも優れ、晩年には秀吉の御咄衆にもなった継潤は、まさに戦国から安土桃山への時代を体現した武将のひとりといえるでしょう。派手な逸話を持つ人物ではありませんが、その分、豊臣政権を下支えした実力者としての魅力が感じられます。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/ぐう(京都メディアライン)
写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)

 

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