「比叡山」と聞けば、まず延暦寺を思い浮かべる人が多いでしょう。けれども、その名は知っていても、どんな山で、どのような歴史をたどってきたのかまでは意外と知られていません。
比叡山は、京都府と滋賀県の境にそびえ、古くから信仰を集めてきた霊山です。さらに、中世には日本仏教の中心として栄え、戦国時代には織田信長の焼き討ちという大きな転機も経験しました。2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の時代を考える上でも、見逃せない場所のひとつです。
この記事では「比叡山」という名前の由来や歴史について見ていきましょう。

「比叡山」の読み方と由来は?
まずは、読み方から確認しましょう。
「比叡山」の読み方は……
「ひえいざん」です。
「比叡山」は、古くは「日枝(ひえ)の山」と呼ばれていました。
この山は、もともと大山咋神(おおやまくいのかみ)を祀る山岳信仰の場でした。のちに最澄が入山し、延暦寺を開いたことで、比叡山は天台宗の総本山をいただく霊山として広く知られるようになります。
平安京の北東、すなわち鬼門に位置するため、王城鎮護の山としても重んじられました。比叡山は、信仰と国家を結びつける特別な山だったのです。

「比叡山」の歴史|信長や秀吉との関係は?
比叡山の歴史を語る上で欠かせないのが、最澄による延暦寺の創建です。最澄は延暦4年(785)に入山し、延暦7年(788)には一乗止観院を建立したとされます。これがのちの延暦寺の始まりとなりました。以来、比叡山は天台教学の中心として発展し、東塔・西塔・横川の三つの地区に多くの堂塔や坊舎が建ち並ぶ大寺院となります。
中世には、その宗教的権威はいっそう高まりました。比叡山には多数の僧兵が存在し、政治にも大きな影響力を持つようになります。また、山内で学んだ僧の中からは、法然、親鸞、道元、日蓮ら、のちの日本仏教を大きく動かす人物が現れました。比叡山が「日本仏教の母山」と呼ばれるのは、このためです。
信長による比叡山焼き討ち
しかし、戦国時代になると、比叡山は乱世のただ中に置かれます。特に大きな出来事が、元亀2年(1571)の織田信長による比叡山焼き討ちでした。信長は、延暦寺が浅井・朝倉方と結びつき、自らに敵対する勢力をかくまっているとみて、山上の堂塔を焼き払います。
これにより、三千坊を数えたともいわれる堂舎は大きな打撃を受け、多くの僧も山を離れることになりました。比叡山にとって、まさに歴史を分ける一大事件だったといえます。
秀吉と家康の援助により復興
その後、比叡山の再興に力を貸したのが、豊臣秀吉や徳川家康です。特に秀吉は、荒廃した寺域の復興を支えた人物として重要です。現在、西塔にある釈迦堂は、文禄4年(1595)に秀吉が園城(おんじょう)寺の金堂を移築したものと伝えられています。
やがて江戸時代に入ると、徳川家康や家光の保護もあって諸堂が整えられ、比叡山は再び天台宗総本山としての姿を取り戻していきます。
最後に
比叡山は、ただの山ではありません。古代の山岳信仰にはじまり、最澄による延暦寺の創建、中世仏教の発展、そして信長の焼き討ちと秀吉らによる復興まで、日本の歴史そのものを映し出すような場所です。
「比叡山」という一見なじみのある名の奥には、信仰、政治、戦乱、再生という長い物語が隠されています。時代劇をより深く味わう上でも、比叡山はぜひ知っておきたい歴史の舞台といえるでしょう。
文/菅原喜子(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)











