はじめに-藤原顕光とはどのような人物だったのか

藤原顕光(ふじわらのあきみつ)は、摂政・関白として実権を握った藤原兼家(かねいえ)の兄・兼通(かねみち)の嫡男として生まれます。昇進が遅れつつも最終的には左大臣に。そして、死後は道長を呪う悪霊と化したと伝わる顕光は、どのような人生を歩んだのでしょうか。史実をベースに紐解きます。

2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』では、道長の一回り上の公卿で、無能ぶりをしばしば嘲笑されながらも、ライバルの公卿たちが早くに亡くなったことから、政治の中枢にとどまり続ける人物(演:宮川一朗太)として描かれます。

目次
はじめに—藤原顕光とはどのような人物だったのか
藤原顕光が生きた時代
藤原顕光の生涯と主な出来事
まとめ

藤原顕光が生きた時代

顕光の父で関白の藤原兼通が没すると、執政の座は、その弟・兼家から、子の道隆、道長へと受け継がれます。道長は優れた政治センスとともに、娘らを入内させ皇子が生まれると、立太子とすることで権力を掌握していきました。

藤原顕光の生涯と主な出来事

藤原顕光は天慶7年(944)に生まれ、治安元年(1021)に没しています。その生涯を、主な出来事ともに辿りましょう。

ライバル公卿たちが次々没する

藤原顕光は、天慶7年(944)、藤原兼通(かねみち)の長男として生まれます。母は元平親王(第57代 陽成天皇第三皇子)の長女・昭子(しょうし/あきこ)女王。

円融天皇の治世に父・兼通が関白となると、顕光も順調に出世。天延3年(975)には従四位下・参議となりましたが、顕光よりも格段に人望と才に優れていたといわれる弟の朝光(あさてる/あさみつ)はすでに権中納言でした。貞元2年(977年)、顕光もようやく権中納言に。と、ここでしばらく出世は滞ります。

同年、兼通が没し、その弟の兼家(かねいえ)が実権を握ると、一条天皇の摂政・関白として君臨。兼家没後、関白職はその嫡男・道隆へ受け継がれました。この頃、顕光は中納言でしたが、朝光はすでに大納言。その力量の差は明らかでした。

長徳元年(995)、都に疫病が流行。朝光をはじめ多くの有力貴族が病死したこともあって、顕光は権大納言に昇進します。ちなみに関白・道隆も、疫病ではありませんが病で没しました。

無能と揶揄されながらも、右大臣に。次ページに続きます

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