はじめに-藤原隆家とはどのような人物だったのか
藤原隆家(ふじわらのたかいえ)は、祖父・兼家(かねいえ)、父・道隆(みちたか)が共に関白を務めた中関白家に生まれ、「さがな者(あらくれ者)」として有名でした。「長徳の変」では花山法皇を襲撃し、「刀伊の入寇」では敵方を制圧した武闘派の隆家は、実際にはどのような人物だったのでしょう。史実をベースに紐解きます。
2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』では、父・道隆の死後、一家没落の憂き目に遭いながらも、冷静かつ闊達な性格で乗りこえていく人物(演:竜星涼)として描かれます。
目次
はじめに―藤原隆家とはどのような人物だったのか
藤原隆家が生きた時代
藤原隆家の生涯と主な出来事
まとめ
藤原隆家が生きた時代
藤原兼家から続く、中関白家(なかのかんぱくけ)の後継者たる嫡男・伊周(これちか)が、叔父・道長との権力争いに敗れ、やがて道長は、後一条天皇、後朱雀(ごすざく)天皇の外祖父として、権力の絶長期を迎えます。その頃、北九州を震撼させたのが、平安時代最大の対外危機「刀根の入寇(といのにゅうこう)」でした。
藤原隆家の生涯と主な出来事
藤原隆家は天元2年(979)に生まれ、寛徳元年(1044)に没しています。その生涯を、主な出来事ともに辿りましょう。
花山法皇に弓引く事件、「長徳の変」
藤原隆家は天元2年(979)、藤原道隆の四男として生まれます。母は高階貴子(たかしなのきし/たかこ)。妹に一条天皇の中宮・定子(ていし)、叔父に藤原道長がおり、父は、祖父の兼家に続いて摂政・関白を務めました。
隆家自身も順調に昇進し、長徳元年(995)には、16歳にして権中納言に任じられます。しかし同年、道隆が死去。道長が、内覧・右大臣となって執政の座に着き、後継者と見なされていた道隆の嫡男・伊周より上位となります。当然、兼家の嫡男筋である中関白家(なかのかんぱくけ)としては、面白いはずがありません。
藤原実資(さねすけ)の日記『小右記(しょうゆうき)』によると、同じ年の7月、隆家の従者と道長の従者が七条大路で大乱闘、8月には隆家の従者に道長の随身(ボディガード)の一人が、殺害されるという事件まで起きてしまいます。そして、翌長徳2年(996)には、隆家自身が花山(かざん)法皇のご一行を襲う、「長徳(ちょうとく)の変」を引き起こしました。
事件のあらましはこうです。伊周は、藤原為光(ためみつ)の娘・三の君のもとへ通っていました。一方、花山法皇は四の君のもとへ。伊周は法皇も同じ女性を寵愛しているのだと勘違いし、隆家に相談。隆家は従者を引き連れ、法皇らを待ち伏せして襲撃し、従者の一人が法皇の衣の袖を射抜きました。
法皇は仏門にありながら、女性のもとに通っていた体裁の悪さと恐怖から口をつぐんでいましたが、これが道長の耳に入り、結果、伊周は太宰府に、隆家は出雲へ左遷されることに。しかし、隆家は病気を理由に但馬国(たじまのくに 現在の兵庫県北部)にとどまりました。
【政界復帰、甥の立太子に望みをかけるも。次ページに続きます】