はじめに-花山天皇とはどのような人物だったのか
花山天皇(かざんてんのう)には、奇行や女好きなどのイメージがつきまといますが、天皇として革新的な政治手腕を発揮した一面もあります。では、実際にはどのような人物だったのか、史実をベースに紐解いてみましょう。
2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』では、師貞(もろさだ)親王時代から登場。主人公まひろ(紫式部)の父・藤原為時(ふじわらのためとき)から漢籍を学び、即位後は藤原兼家(かねいえ)らにより、早々の退位を画策される人物(演:本郷奏多)として描かれます。
目次
はじめに—花山天皇とはどのような人物だったのか
花山天皇が生きた時代
花山天皇の生涯と主な出来事
まとめ
花山天皇が生きた時代
花山天皇が生きた時代は、天皇と婚姻関係を結んだ貴族が外戚として台頭。特に藤原氏が摂関職を独占し、天皇といえどもその立場を左右されるほどの力を持っていました。その結果、藤原氏同士の権力をめぐる駆け引きが、朝廷内に渦巻くことになります。
花山天皇の生涯と主な出来事
花山天皇は安和元年(968)に生まれ、寛弘5年(1008)に没しています。その生涯を、主な出来事とともに紐解いていきましょう。
強力な後ろ盾のないままに即位
第65代・花山天皇は、安和元年(968)、冷泉(れいぜい)天皇の第一皇子として生まれます。諱(いみな)は、師貞(もろさだ)、母は藤原伊尹(これただ)の娘・女御懐子(かいし/ちかこ)。
冷泉天皇には気の病があり、長い在位は望めないとされていました。そして取り急ぎ、その弟の守平(もりひら)親王が東宮になり、のちに円融(えんゆう)天皇として即位。それと同時に、1歳にも満たない師貞親王は皇太子となりました。
後ろ盾となったのは伊尹。太政大臣、摂政へと上り詰めますが、間もなく病に倒れ、そのまま没します。花山天皇は中宮を置いておらず、数え17歳で即位したときには、頼りになる外戚がいないという環境でした。
実権を握ったのは、叔父の藤原義懐(よしちか、 懐子の弟)と乳母の子の藤原惟成(これしげ)です。
革新的な政策を次々と断行
この三人体制で、革新的な政治路線を打ち出した花山天皇。饗宴 (きょうえん) の禁制を布告して、貴族社会の統制・引き締めを図り、永観2年(984)には、「荘園整理令」(違法な手続きにより設立された、荘園を停止する法令)を布告します。
しかし、このような改革は、関白・藤原頼忠(ふじわらのよりただ)との対立を生み、懐仁(やすひと)親王(64代・円融天皇の第一皇子)の外祖父である右大臣藤原兼家(かねいえ)も外戚の地位を得るべく、花山天皇の早期退位を願って、天皇や義懐と対決の姿勢を示します。
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