はじめに-嶋左近とはどんな人物だったのか?
嶋左近(島左近)といえば、「治部少(石田三成のこと)に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」という落首を想起する方が、多いのではないでしょうか? 「三成に過ぎたる者」と称された三成の軍師・嶋左近とは、実際どのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。
NHK大河ドラマ『どうする家康』では、石田三成が三顧の礼を持って召し抱えた武将であり、逆境においてこそ、真価を発揮する男(演:高橋努)として描かれます。
目次
はじめにー嶋左近とはどんな人物だったのか?
嶋左近の生きた時代
嶋左近の足跡と主な出来事
まとめ
嶋左近の生きた時代
嶋左近は、織豊政権期の武将です。織田信長が戦国動乱を終息させ、後を継いだ豊臣秀吉が天下統一を成し遂げた時代は、日本史の中でも極めて重要な時代に当たるでしょう。しかし、歳月で表すとわずか30年ほどの短い期間でもあるのです。
嶋左近は、中世から近世へと大きく変革した時代に生きました。
嶋左近の足跡と主な出来事
嶋左近の生年は、はっきりとしていません。没年は、慶長5年(1600)です。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。
大和・筒井家に仕えた、嶋左近
嶋左近は、嶋友保(ともやす)の子として誕生しますが、現在のところ、はっきりとした出自はわかっていません。左近は通称であり、名は清興(きよおき)です。別に勝猛、友之とする書もあります。
左近は当初、大和(=現在の奈良県)の筒井家に仕えていました。左近が属した時の筒井家は、弱小勢力でした。しかし、やがて大和一国を預かる大名となるのです。それを支えていたのが、左近の活躍だったと言います。それ故、左近の名も戦国の世に広まったのです。
筒井家を出奔、選んだ仕官先は…石田三成
数年後、左近は、筒井家の新しい跡継ぎと対立。その結果、筒井家を出奔し、浪人となります。名の知られた左近の元には、各所から仕官要請が舞い込んできたそうです。その中には、徳川家康の名もあったと言います。
引く手数多であった、左近が仕官先として選んだのは、石田三成のもとでした。その経緯には、有名な逸話が残されておりますのでご紹介しましょう。
近江国水口(みなくち=現在の滋賀県甲賀市水口町)に所領を持つ三成は、左近を家臣として招きました。しかし、左近は三成よりも一回り以上年上であり、武力に優れた武将だったため、戦歴のない三成の申し出を断ります。断られても諦めきれない三成は、自分の石高4万石のうち半分の2万石を差し出すと申し出たのです。左近は三成の意気を感じ、腹心の部下になった…という有名なエピソードがあります(『常山紀談』より)。
しかし、この逸話。今では、誤りであると考えられています。三成が左近を召し抱えたのは、近江国佐和山城主であった文禄4年(1595)以降だと推測されるからです。この時、三成の石高は、19万石でした。現実的ではありますが、有名な逸話の方がロマンを感じさせます。
【関ヶ原の戦いで、“鬼左近”あらわる。次ページに続きます】