⼤河ドラマや時代劇を観ていると、現代ではあまり使われない⾔葉が多く出てきます。なんとなくの理解でも番組を楽しむことはできますが、セリフの中に出てくる歴史⽤語を理解していたら、より楽しく観ていただけるのではないでしょうか?
【戦国ことば解説】では、戦国時代に使われていた⾔葉を解説。⾔葉を紐解けば、戦国時代の場⾯描写がより具体的に思い浮かべていただけることと思います。より楽しくご覧いただくための⼀助としていただけたら幸いです。
さて、この記事では「十二条の訴状」という言葉をご紹介します。十二条の訴状は、五徳姫が父である信長に送った手紙に書かれていた内容のことです。まずは「十二条の訴状」についてご説明いたしましょう。
⽬次
「十二条の訴状」とは?
「信康・築山殿事件」のその後
まとめ
「十二条の訴状」とは?
「十二条の訴状」とは、五徳姫が、夫である松平信康と姑の築山殿(瀬名)に対する不満などを綴った弾劾状のことです。
永禄10年(1567)、家康と信長が同盟を結んだ証として、信長の娘・五徳姫と家康の息子・信康は結婚することとなりました。その3年後、信康は父・家康から岡崎城を譲り受け、城主となります。この城で、信康と五徳姫、そして信康の母・築山殿は同居することとなったのです。その後、信康と五徳姫の間に二人の子が生まれますが、いずれも女児でした。
跡継ぎの男児がいないことを不安に感じた築山殿は、信康に対して側室を設けるように忠告したそうです。しかし、築山殿の提案に、五徳姫は腹を立てました。男児を出産することができなかった自分への当てつけであると感じた五徳姫は、二人に対する不満を綴った訴状を信長に送り付けたと言われています。
この訴状が「十二条の訴状」と呼ばれるものですが、現存しておらず、完全な形では伝わっていません。
「築山殿は、私と信康様の仲を裂こうとしている」だとか、「築山殿は岡崎城内で贅沢な暮らしをしている」、「信康様は鷹狩の最中、獲物がない腹いせに通りかかった法師を殺した」などといった築山殿が五徳姫をないがしろにしていることや信康の素行の悪さなどが書かれていたとされています。
その中でも、信長が見逃せなかったのが、「築山殿は、甲斐の唐人医師・減敬(げんきょう)と密会している」や「勝頼は織田・徳川を滅ぼした後、信康様を新たな領主としようとしている」などといった、二人が武田氏と内通していることがほのめかされていた点とされています。信康と築山殿に武田氏内通の嫌疑がかけられた以上、野放しにするわけにはいかなかったのです。
「信康・築山殿事件」のその後
五徳姫からの訴状に目を通した信長は、信康と築山殿が武田氏と内通しているのではないかと疑念を抱き、家康に二人の処分を命じたとされます。これを受けて、家康の重臣・酒井忠次は、信長を説得するため、安土城を訪れることに。しかし、完全に説得することはできず、ついに信康と築山殿の処分が決定してしまうのです。
そして、天正7年(1579)8月29日、呼び出しを受けて浜松城へと向かう道中、家康の命を受けた家臣・野中重政(しげまさ)によって、築山殿は殺害されてしまいます。築山殿の死から間もない9月15日に、信康も二俣(ふたまた)城にて、切腹し果てました。この時、築山殿は38歳、信康は21歳という若さでした。
二人の死後、未亡人となった五徳姫は、出家も再婚もせず、京都に隠棲したと伝えられています。
そもそも、「信康・築山殿事件」の発端とは?
事件の発端は、五徳姫が信長に訴状を送り付けたことにあるというのが通説です。しかし、現在でも複数の意見に分かれており、一説には、浜松派と岡崎派の対立によるというものがあります。
当時の徳川家臣団は、前線で活躍していた浜松派と、主に後方支援を行った岡崎派に分かれていました。その岡崎派が、信康を担いで対立に発展させたというものですが、真相ははっきりとはわかっていません。やはり、信康と築山殿に武田氏内通の嫌疑がかけられたということが、事件発生の原因として考えられるでしょう。
家康と敵対関係にあった武田氏と関係を持つということは、重大な規律違反でした。二人が本当に武田氏と内通していたのかどうかはわかりませんが、家臣たちへの見せしめとして処刑されたとも言われています。二人の死は、家康を精神的に苦しめました。しかし、家臣団を統制するためには、非情な決断を下すしかなかったのかもしれません。
まとめ
信康と築山殿が悲劇的な最期を迎える発端となった、「十二条の訴状」。近年では、「訴状自体が偽作されたものなのでは?」という説もあります。しかし、いずれにしろ二人は非業の死を遂げ、家康や家臣団たちを深く悲しませることとなったのです。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
⽂/とよだまほ(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)