はじめに-徳川家康の「小田原合戦」とはどんな戦いだったのか
小田原合戦とは、天正18年(1590)に、豊臣秀吉が北条氏の拠点・小田原城を攻略して北条氏を破り、天下統一を成し遂げた戦いです。
関白となった秀吉が出した裁定に対して、北条氏の家臣が違反して城を奪ったことを発端に、秀吉は22万とも言われる大軍で小田原城を包囲、北条氏は3か月の持久戦を展開します。
この「小田原合戦(小田原征伐)」について、家康に焦点を当てながら解説していきます。
目次
はじめに-徳川家康の「小田原合戦」とはどんな戦いだったのか
「小田原合戦」はなぜ起こったのか
関わった人物
この戦いの内容と結果
「小田原合戦」、その後
まとめ
「小田原合戦」はなぜ起こったのか
関白に就任し、家康や上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)を従わせ、中国・九州平定に成功した秀吉は天下一の実力者になっていました。
しかし、東北や関東にはまだ秀吉に従わない大名も多く、特に関東では北条氏が大きな勢力を誇っていました。その頃、北条氏のトップは父・北条氏政(うじまさ)と息子・北条氏直(うじなお)で、成り上がった秀吉に対して否定的な態度を取っていました。
そのため、天正16年(1588)に秀吉が自身の城である聚楽第(じゅらくだい)に後陽成(ごようぜい)天皇を招き、全国の諸大名にも列席を命じた時にも、氏政・氏直父子は出席しませんでした。秀吉がたびたび上洛するよう催促しますが、北条氏は無視し続けます。
そこで、仲介役として選ばれたのが、家康。家康は娘を氏直の嫁に出していたので、北条氏とコンタクトを取りやすい立場だったのです。
家康の仲介で、北条氏も態度を軟化させ、まず氏政の弟・氏規(うじのり)が上洛。この時は、徳川・北条が沼田領(群馬県沼田)をめぐって起きている紛争に対して、秀吉が裁定を下しました。氏直はこれを容認し、氏政上洛の誓約書を秀吉に渡します。
これによって問題は解決したかに見えましたが、沼田城にいた北条の家臣・猪俣邦憲(いのまた・くにのり)が豊臣方の真田昌幸の名胡桃(なぐるみ)城を攻撃、占領してしまいます。
この出来事は、秀吉が既に出していた大名間の私戦を禁じる「惣無事令(そうぶじれい)」に反することでした。こうして、秀吉と北条氏の対立は決定的なものとなったのです。
関わった人物
次に、小田原合戦における主要な人物について紹介します。
豊臣方
・豊臣秀吉
関白にまで上り詰め、中国・九州も平定した最高実力者。残すは関東・東北のみ。
・徳川家康
自身の娘を氏直の嫁に出していたので、秀吉と北条氏を仲介することになります。小田原合戦後は、関東の支配権を握ることに。
北条方
・北条氏政
北条氏の祖・北条早雲(そううん)から4代目。5代目を氏直に譲るも、実権を握っていました。
・北条氏直
北条氏の5代目。小田原合戦で秀吉に敗れるも、家康の娘婿であったことから命拾いします。
【「小田原合戦」後、家康は関東転封に。次ページに続きます】