この戦いの内容と結果
天正17年(1589)、秀吉は北条氏に対して最後通牒を送り、宣戦布告。そして、小田原城を包囲するための作戦を練ります。22万という大軍で、小田原城を三方面から包囲するという作戦です。
家康は先鋒隊として、天正18年(1590)2月に駿府を出発。家康が先鋒となったのは、秀吉が臣従の態度を確認する目的があったとも言われています。その中で、井伊直政は城の惣構(そうがまえ)から侵入し、400人の敵兵を討ち取ったという記録があります。しかし、豊臣軍で城内に入れたのは、直政のみでした。
秀吉は、22万人の兵士の200日分の米を準備させました。堅牢な小田原城を攻めるに際し、長期戦を予想していたようです。
一方の北条方も秀吉軍を迎え撃つべく準備に取り掛かります。重臣たちは籠城するか、野戦に持ち込むかで長い議論を交わしていました。これが有名な「小田原評定(おだわらひょうじょう)」です。
最終的に、かつて上杉謙信や武田信玄の来襲を防いだ、籠城戦へ持ち込む方針に決定。北条氏は秀吉の関東攻略を予想して、市街地を全て包み込んだ大外郭を建設していました。また、武器・兵糧・弾薬などの準備も進められ、兵士の多くを小田原城に集結させます。
4月になると、秀吉は小田原城の完全包囲網を敷きます。こうして、両軍がにらみ合う持久戦が始まりました。ただ、持久戦は常に緊張感に満ちたものではなかったようです。小田原城内では、守備担当以外は碁や双六で遊び、宴を開くということもありました。秀吉軍も同様に、淀殿を始めとした家族や千利休を招いて茶会を開いたり、書院や茶室のある屋敷を構えたりしたそうです。
しかし、のんびりしているように見えつつも、確実に状況は動いていました。6月24日までには、北条方の城が次々と陥落し、残すは小田原城と忍城(おしじょう)のみとなります。
さらには、6月26日に一夜城(石垣山城)が出現したことによって、北条方は戦意喪失の状態に……。この城は竣工と同時に周囲の木を切り払ったため、一夜にして出現した城(一夜城)として北条方を驚かせましたが、実際には一夜で完成したわけではありません。秀吉が箱根湯本に到着した4月6日から、小田原城を見下ろせる石垣山に城を築き始めていたのです。一夜城に動揺した北条方は、やがて内部崩壊に向かっていきました。
まず、重臣・松田憲秀 (まつだのりひで) が秀吉に内応しようとする動きを見せます。結果的にこれは明るみに出たことから実現しなかったものの、北条方の家臣は疑心暗鬼に陥ることになったのです。
そしてついに7月5日、家康・黒田孝高(くろだよしたか)・滝川雄利(たきがわかつとし)らの和議の努力もあり、小田原城は開城。北条氏は秀吉に降伏したのでした。なお、開城後の小田原城は家康の家臣が引き取っています。
「小田原合戦」、その後
戦後、北条氏についての処理が決められました。まず、氏直は家康の娘婿であったということで命は助けられ、高野山(こうやさん)へと追放。氏政とその弟・氏照(うじてる)は切腹に。
合戦後、秀吉は自ら東北へと赴き、会津で奥羽諸大名の降を受け容れました。ここに天下統一が完成したのです。
家康は関東転封に
7月13日、秀吉は小田原城に入り、論功行賞を行います。その中で、家康は関東(250万石)が与えられました。しかし、三河を含む5か国(150万石)を返上することに……。石高は増えましたが、地理的には左遷とも言えました。こうしたことから、関東転封の決定に異を唱える家康の家臣も少なくなかったようです。
そうした家臣の動揺を抑制するかのように、家康は早くも8月1日(「八朔(はっさく)」と呼ばれた吉日)には江戸に入り、9月には家臣たちに地行を割り当てたと言います。
まとめ
小田原合戦は、長引いた戦国の世の終焉を告げる大きな出来事でした。また、小田原合戦後、家康は関東に転封されることになりますが、皮肉にもこのことが江戸に幕府を開くきっかけにもなっていくのです。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/三鷹れい(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)