数え上げたことは無いのですが、近年「日本のふる里」を標榜する町村、特定の地域が多いように感じています。これは、地域おこし、地方創生への取り組みの影響なのでしょうか? それとも“ふるさと納税”と結びつけるためのイメージ戦略でしょうか。
いずれにしても、この「日本のふる里」と冠をつけるにあたり、何か基準となるものはあるのだろうか、と疑問に思ったりもします。
あくまでも個人的な主観でしかないのですが、この「日本のふる里」とは、長閑な景観、のんびりとした雰囲気が漂う“日本の田舎”を、「日本のふる里」という言葉に置き換え表現しているのではないかと解釈をしております。
もしも、ある種漠然とした日本人共通の「ふる里感」のようなものを頼りに、「日本のふる里」を標榜しているとするなら、個々人が持つ「ふる里感」が違うだけに、ちょっとした齟齬が生まれているのではないかと、少々気掛かりではあります。
例えば、「日本のふる里を体感したい」と思い訪れたところ「期待した程でもなかった……」と落胆してしまうとか。あるいは、商業化が進んだ地域で期待を裏切られたとか。逆に、本当に何も無い、人も居ない田舎だったとか……。
色々な「日本のふる里」があるのでしょうから、日本各地の「日本のふる里」を訪ね個人的な尺度で「日本のふる里度」を測ってみようかな、と思ったりもいたします。
そんなことから、何処かの「日本のふる里」を訪ねてみようかと思い探査しておりましたところ、岡山県北西部に「日本で最も美しい村」と掲げる村の存在を知りました。果たして、その「日本で最も美しい村」の景色の中に、私が求める「懐かしき風景」を観ることができるのだろうか? と興味が湧いてきました。
そこで、今回の「懐かしき風景」では、その「日本で最も美しい村」岡山県真庭郡新庄村の風景をご紹介することにしました。
「日本で最も美しい村」とは? どんな村なのか?
新庄村を訪問するにあたって、どこが、どのように「日本で最も美しい村」なのか、という素朴な疑問が湧いてきました。そこで、「日本で最も美しい村」と標榜するだけの根拠、その名にふさわしい基準などについて調べることにしました。
すると、「日本で最も美しい村」の称号は、特定非営利活動法人「日本で最も美しい村連合」の登録名称となっており、使用するには管理団体への登録、認可が必要とのこと。認定を受けるためには、それなりの要件を満たしている必要があるようです。
ということは、ある種の「お墨付き」を得た“日本の最も美しい村”の一つということになりますから、それなりに「美しい村」、大いに期待が持てるということになります。
しかし、この取材の本来の目的は「日本で最も美しい村」の景色に、どれだけ「懐かしさ」を感じられるのか? ということになりますから、“日本で最も美しい村連合”や、その認定基準について、この記事では触れておりませんので、予めご容赦ください。
「日本で最も美しい村」に加盟する「新庄村」は、岡山県の最北西部に位置し、村境は鳥取県の日野郡に隣接しています。村の歴史を紐解いてみますと、江戸時代に入ってから旧出雲街道の宿場町として栄えたという記録があるそうです。その後、出雲地方、中国山地で多く産出した砂鉄を原料とする「たたら鉄」と、その燃料に用いられた木炭の集散地としても発展します。
この地に宿場が設けられた大きな理由の一つに、地理的事情があります。出雲国(現島根県)と伯耆国(現鳥取県)から美作国(現岡山県)へ抜ける出雲街道は、中国地方の最高峰大山を大きく迂回しながら険しい中国山地を越える必要がありました。
この中国山地を越える峠を「四十曲(しじゅうまがり)」と呼び、出雲街道における最大の難所として知られていました。その険しさは、当時の旅人たちを相当苦しめたようで、東の箱根、西の四十曲峠と難所の代名詞のように呼ばれていたとのこと。
そのために、国境をまたがる四十曲峠の前後には宿場町が設けられたそうです。村名「新庄」の由来ですが、中世の荘園であった“美甘荘”が美甘本荘と美甘新荘の2つに分割され、その後に“新荘”が”新庄”へと変化していったと伝わっています。
現在の「新庄宿」の佇まいの原形が整備され、本陣が置かれたのは江戸時代初期の寛文期(1661〜1673)の頃。出雲松江藩や支藩の広瀬藩が参勤交代などの際に利用したとの記録が、残されているそうです。旧出雲街道の両側には水路が流れ、切り妻造りや、平入りの伝統的な家屋が整然と軒を連ねています。家々の前には農産物などが洗える生け簀が設けられおり、中には大きな鯉が泳いでいました。
街道筋に等間隔に植えられた桜並木は「凱旋桜」と呼ばれています。この桜並木は、日露戦争の戦勝記念として植樹されたもので、今や新庄村を象徴する観光資源の一つです。
「村」として存続させた気骨あふれる精神が、「日本で最も美しい村」をつくる
都市の中で生活する私たちにとって、すでに「○○村」という住所を見聞きすることは、かなり少なくなってきています。今現在、日本国内の行政区にどれくらいの「村」が存在するのかを調べてみると、183村(令和3年1月1日現在)があるそうで、平成の大合併の前後の「村」の数を比較すると、平成11年(1999)3月1日現在では568村あったものが、平成22年(2010)3月31日には、現在とほぼ同数の184村まで減っています。
そんな中、何故に「新庄村」は、合併の道を選ばなかったのか? との疑問が生じます。その事について、新庄村のホームページには、村長(小倉 博俊氏)自らが次のように表明をしておりますので、ご紹介しておきます。
新庄村は明治5年の村政施行以来一度の合併もなく、さまざまな艱難辛苦を乗り越えてきました。
岡山県真庭郡新庄村ホームページ 村長からのご挨拶より
新庄村を愛する村民の熱い思いを受け止め、平成14年に「小さくても合併せずに自主自立の村を目指す。」新庄村宣言をし、平成の大合併の大きな流れにも立ち向かい今日に至っています。
今、国はまち・ひと・しごと創生本部を設置し地方自治体の自主的な取り組みを可能にしようとする方向に動きはじめました。
地方新時代が始まります。
私は、この流れを見越し、いち早く「新庄版総合創生戦略」作成に着手しました。民意を尊重した夢と希望と活力のある新庄村を作りだします。
里山にはお金に換算できない価値が眠っています。新庄村の強さは、「顔が見えるサイズ感」です。
小さな村が自然を生かし、都市と世界と縁を結んでいく、そんな大きな夢を子どもたちと描きながら、先人が歩み、受け継がれてきた道を、今度は私たちが次の世代へつないでいきます。
この気骨を感じさせるメッセージからは、ただ単に「郷土愛」というものだけでなく、先人たちへの感謝と畏敬の念、郷土の文化や歴史を守り後世へ伝えようとする使命感のようなものが感じられます。
そうした気骨あふれる村人の精神が、「日本で最も美しい村」としての景観を維持存続させているのではないだろうかと考えました。
小学唱歌がぴったりと馴染みそうな風景の中に、故郷を観る
新庄村の風景は、宿場町を外れれば周囲には長閑な田園風景が広がっています。人気は少なく、数人の地元生活者を見かける程度。宿場町を通り抜ける車もほんの僅かしかありません。まことに静かであります。「心休まる風景」とは新庄村のような景観を比喩した言葉ではないだろうかと思ったほど。
新庄村の風景の中で音楽を聴くとするなら、絶対に小学唱歌や童歌が良いでしょう。あるいは、昭和な雰囲気のメロディーが印象的な井上陽水さんの『少年時代』なんかもピッタリくるかもしれない? そんな感じがしました。
私の目にした限りでは、村内でコンビニエンスストアやファストフード店、観光地特有の土産物店を見ることもありませんでした。「今風」と例えることのできる施設は、宿場町から少し離れた国道181号線沿いにある道の駅・がいせん桜 新庄宿くらい。
都会生活に馴れた人にとっては、不便極まりないことなのでしょうが、40~50年前のことを思い起こせば、そんなのは当たり前のこと。その不便ささえも、懐かしく感じられる要素の一つだったかもしれません。
さて、そもそも新庄村を訪れたテーマ、村の風景から「懐かしさ」を感じ得るか? ということですが……、山間部の田舎で育った方でしたら、おそらく幼い頃に見たことのある風景と重なり合って思い出に耽ることができるでしょう。
たとえ、賑やかな街中で育った方であっても、絵画のような“日本の原風景”に出会い、仄々(ほのぼの)とした気分に浸れることだけは確かなように思えました。
是非一度、「日本で最も美しい村」の一つ、新庄村を訪れてみては如何でしょうか?
アクセス情報
所在地:〒717-0201 岡山県真庭郡新庄村中町
鉄 道:JR姫新線 中国勝山駅から真庭市コミュニティバス40分新庄下車
JR伯備線 根雨駅から自動車で20分
自動車:中国自動車道 落合ICから国道313号・181号を米子市に向け50分
米子自動車道 蒜山ICから主要地方道北房川上線で15分
取材・動画・撮影/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
ナレーション/敬太郎
京都メディアライン:https://kyotomedialine.com Facebook