文・写真/藤木香(海外書き人クラブ/元カナダ在住、現スコットランド在住ライター)
幕末に貿易商人として来日し、薩摩藩や長州藩などに艦船や武器を売り込んで財を成し、成功を収めたトーマス・グラバー。日本の近代産業発展に大きな役割を果たした外国人として、日本では広くその名が知れ渡る彼の出身地はスコットランド。ただ、スコットランド二大都市のグラスゴーでもエジンバラでもなく、北東部の海岸沿いに位置する第三の都市・アバディーンが彼の故郷だ。
弱冠19歳で上海への渡航を経験し、20代前半で既に日本での商売を精力的に押し進めていた野心溢れるトーマス・グラバーは、どのような場所で育ったのか。彼の日本での業績を、出身地の人々はどれくらい知っているのだろうか。アバディーン州に点在するトーマス・グラバーのルーツを辿った。
トーマス・グラバーの正式名はトーマス・ブレイク・グラバー(Thomas Blake Glover)(以下トーマス・グラバー)。1838年、父トーマス・ベリー・グラバー(Thomas Berry Glover)が当時沿岸警備隊隊長として赴任していた、アバディーン州北方の小さな漁師町フレイザーバー(Fraserburgh)で8人兄妹の5番目として生まれた。
近年アバディーン市直結の高速道路整備によって市内通勤アクセスが格段に容易になったことから、町のあちこちで新興住宅地開発が進むフレイザーバーだが、グラバー一家が住んでいたと言われるCommerce Street やその周辺は、現在も19世紀ののどかな雰囲気が残る。住人たちはお互い知り合いばかりのようで、歩道のあちこちでご近所さん同士が立ち話する姿が見られ、古き良きスコットランドの田舎町といった感じだ。
トーマス・グラバーの生家とされる コマース通り(Commerce Street) 15番地は、第二次世界大戦中の1941年にナチスドイツの爆撃で破壊され、取り壊されて以来、長年空き地のままだと聞いていた。それが今回訪れてみると、「グラバー生誕地プロジェクト(Glover Birthplace Project)」という町興し事業の一環として、生家跡地にトーマス・グラバー記念広場が作れられている最中だった。
周りを撮影していると、トーマス・グラバーから察しがつくのか、何度か地元の方々に日本人かと声をかけられた。どなたも70代と思しき高齢の方々。ここでトーマス・グラバーと日本の繋がりを知るのは高い年齢層だけなのだろうか、とふと思った。
生家跡地のすぐ隣には、トーマス・グラバーの看板を掲げたフィッシュ&チップスのお店が営業している。トーマス・グラバーに関する常設展示を有する町のヘリテージセンター関係者によると、このお店自体はトーマス・グラバーとの関係は特にないらしいのだが、生まれ故郷で彼の存在が受け継がれていることが伺える。
この小さな海辺の町から誕生した有名人として、トーマス・グラバーにまつわる場所や建物には、それを示す記念プレートが貼られている。
町の海沿いに建つヘリテージセンターには本来、トーマス・グラバーの業績や生涯を讃える展示が常設されているのだが、昨年秋の嵐で屋根が吹き飛ばされてしまい、現在は修理中である。残念ながら、まだ再開館の目処は立っていないとのこと。
グラバー一家は、トーマスが6歳の時に父の駐屯地異動によりフレイザーバーを離れ、その後数年をイングランドで過ごす。しかし再び父の異動により1847年、同じスコットランド東海岸沿いのコリエストン(Collieston)へと移り、さらに2年後に現在のアバディーン市北部にあるブリッジ・オブ・ドン(Bridge of Don)へと移ったところで腰を落ち着けた。
ブリッジ・オブ・ドンへ移ったのち十数年は沿岸警備隊宿舎に住んでいたが、1864年、同じエリアの別の場所に、のちにグラバーハウス(Glover House)と呼ばれる邸宅を手に入れ引っ越した。一家がこのグラバーハウスに移った頃、トーマスは既に、当時の東アジア最大貿易会社の一つジャーディン・マセソン商会の社員として、上海を拠点に日本との取引も精力的に行っていたため、トーマス自身はこの家には住んではいなかったが、機会がある度に訪れ滞在していたのは間違いないだろうと言われている。
グラバーハウスはアバディーン特産の花崗岩を使用した、この地域でよく見られるグレーの石造りの家。近くの通りには「トーマス・グラバー・プレイス(Thomas Glover Place)」の名がつけられている。周りはごく一般的な静かな住宅街だ。グラバーハウスは、1990年代後半に三菱重工が持ち主から敷地と建物を買い取ってグランピアン日本財団へ譲渡、記念館として一般公開されていたのだが、経営悪化などの問題から、現在は閉館のままとなっている。
ところで、トーマス・グラバーが、伊藤博文ら、のちの謂わゆる長州ファイブのメンバーのイギリス密留学を手配したことは周知の事実である。彼らは1863年から始めた留学期間のほとんどをロンドンで過ごしたが、伊藤博文と井上馨の二人が1864年前半からしばらくの間アバディーンに滞在したと言われる。その際彼らが、このグラバーハウスに、何らかの形で訪れた、もしくは滞在した可能性は高いと、専門家の間では指摘されている。
トーマス・グラバーは長州ファイブに続き、薩摩ナインティーンメンバーの密留学も手配。「薩摩藩英国留学生」として英国留学した彼らはロンドン大学の学生として学んだが、当時13歳で大学入学許可を得られなかった長澤鼎(かなえ)はトーマスの実家、つまり後のグラバーハウスへ身を寄せ、トーマスの母校でもあるアバディーンの名門グラマースクール「ジムスクール(Gym School)」に通った。
1867年10月5日付の地元紙アバディーンヘラルドには、「数人の日本人男性がアバディーンで学んでいる」との記載が残されているほか、ジムスクールの記録には日本人5人が学んだという記載と共に、長澤鼎の名も記されているという。
さて、グラバーハウスやジムスクールのある市内北部から3kmほど離れると、アバディーン市街地及びアバディーン港が現れる。港からすぐのマリシャル通り(Marischal street)には、トーマスの兄弟達の設立した船舶保険ブローカー会社が入っていたフラットが今も残る。トーマスの発注により、アバディーンの造船会社によって作られた「常勝丸」を含むいくつかの艦船が、このトーマスの兄弟達の会社を通して日本向け売買契約が行われた。
このアバディーン港を臨むように建てられたアバディーン海洋博物館では、常勝丸を含め、日本でのトーマス・グラバーの生活や業績に関する詳しい展示を常時見ることができる。
トーマス・グラバーやグラバー家にまつわる場所や建物が未だいくつも残るアバディーンではあるが、その名が広く一般に知られているかと言えば、必ずしもそうとは言い難いのが現実のようだ。
筆者がこの記事を書くにあたり、周りの20〜70代のスコットランド出身者30人ほどに聞いて回ったところ、名前を知っていたのは5人。いずれも60代以上、三菱との繋がりと「スコティッシュ・サムライ」を耳にしたことがある程度で、トーマス・グラバーが日本の幕府や地方藩、明治新政府を相手に武器や艦船売買等も行なった商人であった認識は薄い、もしくは知らない、という印象であった。そして、彼の名を知っていた方達からはもれなく「スコットランドではトーマス・グラバーは有名ではないと思う」とのコメントを頂いた。特に若い世代での知名度は、限りなく低いと感じた。
それでも、グラバーハウスが開館していた頃は、日本人観光客や日本からの視察団などが時折訪れることもあって、グラバーハウスのあるブリッジ・オブ・ドン周辺でのトーマス・グラバーの知名度はそれなりにあったようだ。そう教えてくれた、ブリッジ・オブ・ドンに住む60代後半の男性は、グラバーハウスから日本との繋がりを感じることがあったとのことで、閉館を大変残念がっていた。
Aberdeen Maritime Museum: https://www.aberdeencity.gov.uk/AAGM/plan-your-visit/aberdeen-maritime-museum
Thomas Blake Glover Aberdeen City Council (冊子)
Fraserburgh Heritage Centre: https://www.fraserburghheritage.com/index.html
Fraserburgh Heritage Regeneration 2021: https://fraserburgh2021.org/glover-birthplace/
維新史回廊だより第21号:https://isinsi.jp/ishinshidayori/dayori-21.pdf
薩摩藩英国留学生記念館:http://ssmuseum.jp/contents/history/
文・写真/藤木香 (元カナダ在住、現スコットランド在住ライター) 米大学院環境学修士号取得後、約5年間のカナダ生活を経て、2019年よりスコットランド在住。海外関連記事執筆や取材コーディネーター等として活動中。海外書き人クラブ会員(https://www.kaigaikakibito.com/)。