文/鈴木拓也
合戦の日取りを占いで決めた頼朝
1180年5月、後白河法皇の第二皇子である以仁王は、源頼政とともに平氏打倒をもくろむが、挙兵前に事が露見して打倒される。
その際、伊豆国にいた源頼朝は、以仁王からの「清盛法師及びその従類たち謀叛の輩を追討すべき」という内容の令旨を受け取っていた。
しかし、以仁王亡き今となっては、逆に源氏に追討の手が迫っていた。
「奥州へ逃げよ」という助言もあったが、頼朝は平氏と戦うことを決意。伊豆の目代であった平兼隆を襲撃して、これを討ち取った。
襲撃の日取りは8月17日であったが、これは卜筮(ぼくぜい)つまり占いによって決められたという。くわえて、頼朝は観音信仰が篤く、18日は不殺生の日と決めていたことも影響している。
また決行の前日には、勝利を祈願して天曹地府祭という陰陽道に則った儀礼を実施した。
荒くれ者のイメージのある坂東武士だが、合戦のような重大なことも、超自然的な手法に頼っていたのは、意外に思えるかもしれない。しかし、後に「鎌倉殿」と呼ばれることになるリーダー格の人物でも、いやだからこそ占いや呪(まじな)いは必須のものであった……。
そうしたエピソードの数々を1冊にまとめたのが『鎌倉殿と呪術 – 怨霊と怪異の幕府成立史 -』(ワニブックス)である。
源氏と平氏が互いに呪術合戦
壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡するまで、6年におよんだ治承・寿永の乱は、「呪術合戦」でもあった。
例えば京都の平氏サイドは、鎌倉と伊勢大神宮を使者が行き交っていることを知り、極度に神経質になった。平氏を呪詛しているかもしれないと恐れたからである。
それは、本当であった。本書では、1182年のこととして以下のように説明している。
平氏の心配は杞憂ではなく、同年2月8日には鎌倉の使いが伊勢大神宮を訪れ、願書を提出していました。平清盛の急死を神の思し召しとし、「たとえ平家であっても、源氏であっても、不義を罰し、忠臣を褒められよ」と祈り、最後を「上は天皇から、下は庶民まで、太平安穏にお恵みを垂れ、頼朝に従う者たちにいたるまで、夜蛭の守りに護って幸を給えと、恐(かしこ)みて恐みても申す」で締めるなど、武門源氏への肩入れを求める内容に他なりませんでした。
伊勢大神宮は、祈祷を行うことは承諾したものの、平氏がこれを知ることを憚ったのか、請文(受取状)は提出しなかった。これに対し頼朝は、鎌倉のために祈祷を行わなければ、東国の所領の安全は保障できないと暗に恫喝している。
これに対抗したのか、平氏に味方する越後国の城長持が妙見大菩薩を崇め、「武門源氏を呪詛」したとの風聞が伝わっている。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』のなかで頼朝は、京都の文覚上人を招いて、藤原秀衡を呪い殺すべく調伏を行うシーンがあるが、あながちフィクションではないのだ。
そんな頼朝の最期については、主要史料となる『吾妻鏡』に詳しい記述がない。それが伝説と憶測を呼ぶのだが、『鎌倉殿と呪術』では、史書『保暦間記(ほうりゃくかんき)』から、こんな逸話を紹介している。
同書によれば、頼朝が八的ヶ原(やまとがはら)にさしかかったところ、志田義広・源義経・源行家などの亡霊が現れて睨み合いとなり、さらに稲村ヶ崎に至ると、海上に安徳天皇の亡霊が10歳ばかりの童子姿で現れ、「今こそ頼朝を見つけたぞ」と叫んだというのです。
頼朝が、実際にこのような心霊体験をしたのかどうかはともかく、「怨霊の祟りに心当たりがありすぎる」彼にとってみれば、死者の亡霊も警戒すべきものだったのだろう。鎌倉に神社仏閣がたくさんあるのは、ひとつにはその恐れがあったからである。
頼家の力不足を補うため陰陽道を積極活用
頼朝の死後、嫡男の頼家が後を継いだ。
18歳で鎌倉殿という大役が務まるかは未知数ゆえ、北条時政・政子は不安が強かった。その思いを払拭するためか、当年星(とうねんしょう)の祭りを毎月行うことにした。
これは属星祭(ぞくしょうさい)とも呼ばれ、陰陽道の祭祀の一つ。本書の著者の島崎晋さんは、これを次のように説明する。
陰陽道の考え方によれば、人は誰しも一生の禍福を司る本命星(属星)を有しており、それは生まれた年の干支によって定まります。折に触れて本命星を祀り、穢れを撫物(なでもの)につけて祓い清めるのが属星祭で、撫物とは身の穢れを移して、負わせるために用いる人形や小袖のことです。
この祭祀のために、京都で朝廷に仕える陰陽師まで呼び寄せるほどであった。それでも頼家は、先代が備えていた力量もカリスマ性もかなわず、後に親裁権を剥奪されてしまう。そして、北条時政ら宿老13人の合議で訴訟などが諮られることになった。時政の政治的野心が見え始めるのもこの頃からで、血生臭い内紛が続くことになる。
『吾妻鏡』によれば、頼家の時代は怪異や天変地異が続出。まずい政治を行い、蹴鞠にのめりこむ鎌倉殿にその責があるといわんばかりだと、島崎さんは指摘する。
1203年7月、頼家は重い病を得る。その少し前に頼家は、狩猟で出かけた際に見つけた洞穴に、家来を送って調べさせていた。実は、洞穴の奥は浅間神大菩薩の御在所。病の原因は、聖域を犯した神罰かもしれないとも。
頼家は、数種の祈祷のおかげか病状は回復するも、政子に言われるままに出家。翌年には軟禁生活の末に刺客の手で亡き者になった。
神のお告げで後鳥羽院に先手を打つ
頼家が実質的に追放されると、実朝が3代目の鎌倉殿として擁立された。
彼もカリスマ性には欠ける人物ではあったが、島崎さんは「人為的に神秘的な色彩」を施してそれを補ったと指摘。例えば、実朝の祈祷によって恵みの雨が降ったなどといった、『吾妻鏡』の記述を引き合いに出している。
また、陰陽道の祭祀がさらに増えていったのは、密教と違って新鮮味があったというのもある。政治的な打算もあったろうが、見えない世界への畏怖の念は当時の人たちには強かった。
しかし、祭祀への熱心な傾倒にかかわらず、1219年に実朝は暗殺されてしまう。
源氏将軍の血筋が断絶すると、歴史は急展開していく。実朝の死後から、地震や洪水など天変地異が例年になく多く発生。倒幕を考え始めた後鳥羽院の呪詛の影響とほのめかされているが、鎌倉側は天変地異に対抗しようと試みた。もちろん祭祀によってである。
『吾妻鏡』の1221年1月22日条には、同月10日の雷雨を受けて、安倍泰貞に天地災変祭、安倍春吉に三万六千神祭(さんまんろくせんじんさい)、安倍親職に属星祭、安倍宣賢に泰山府君祭、重宗に天曹地府祭を奉仕させ、鶴岡八幡宮寺では供僧に大般若経を転読させたとの記事が見られます。
また、政子は夢を通じて伊勢大神宮から「世は大いに乱れて兵を集める事態となる。北条泰時がわれを耀(かがや)かせば、太平を得るであろう」とのお告げを得る。
はたして、1221年5月に後鳥羽院が挙兵。政子は、先手を打って京都へ進撃することを提言。これは受け入れられて、関東の軍勢が大挙して上洛。衆寡敵せず、後鳥羽院は敗北したのは史実が語るとおり。これも熱心な祈祷の効験なのかもしれない。
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このように鎌倉時代を通じて、権力者はさまざまな祭祀と呪術の力をあてにし、ときには右往左往した。教科書ではほぼ触れられていない、こうしたファクターは、歴史に大きな影響を及ぼしていたことがわかる。本書は、この時代の裏面史を知る格好の1冊にちがいない。
【今日の教養を高める1冊】
『鎌倉殿と呪術 – 怨霊と怪異の幕府成立史 -』
文/鈴木拓也 老舗翻訳会社役員を退任後、フリーライター兼ボードゲーム制作者となる。趣味は神社仏閣・秘境巡りで、撮った映像をYouTube(Mystical Places in Japan)に掲載している。