文・写真/藤木香(海外書き人クラブ/元カナダ在住、現スコットランド在住ライター)
イギリスのフットパス(Footpath: 通路、通り道。散歩道やハイキング、登山道にも使われる)は全長20万km以上。全国各地に張り巡らされ、どこにいようとフットパスを歩けばロンドンまで辿り着く、とさえ言われる。
これを可能にしているのは、イギリスにおける「right of way」(歩く権利、通行権、等と訳される)と呼ばれる公共権利の存在だ。この権利は、国有地・私有地に関係なく、対象となる土地を突っ切って公衆が通行することを認めるもの。昔からその土地が公衆通路として使われており、現在も通路として使われているのであれば、誰でも自由にそこを使用し続ける権利があるという考えに基づいている。
この「歩く権利」、スコットランドにおいては一定の条件があるものの、過去20年間に公衆通路として使用されてきたすべての通路に適用される。イングランドやウェールズと違い、地方自治体に権利通路を示す標識設置義務はなく、1845年に組織された慈善団体「スコットウェイズ」(Scottish Rights of Ways & Access Society:Scotways)が、通路や標識のメンテナンスを担っている。
19世紀後半、このスコットウェイズが一躍脚光を浴び、スコットランド民衆の心に「歩く権利」の意識を確立させるきっかけとなった訴訟問題が持ち上がった。その舞台が、イギリス最大の国立公園ケアンゴームズ国立公園内のグレン・カラター(Glen Callater)からグレン・ドール(Glen Doll)へと通り抜けるルートだ。いったいどのような場所なのか。その一部を歩いてきた。
ケアンゴームズ山中にある山岳拠点の町ブレマー(Braemer)から舗装された道路を3.5kmほど歩くと、カラター湖(Loch Callater)へ繋がる舗装のない道へと入っていく。
フットパスが長い場合、道路から山道へと入ったり、牧草地へと入ったり、とパスの形態が変わるような要所要所に、出入口が設けられていることが多い。出入口は小さな扉のものが多く、ほぼ1人ずつしか通れない。今回歩いたパスに設けられていたのはスタイル(stile)と呼ばれるタイプ。他にもキッシングゲート(kissing gate)と呼ばれるタイプ等いくつか種類があるが、基本は1人ずつの通り抜け。
ゲートをキチンと閉める、ゴミを捨てない、などのマナー遵守はフットパス使用者の義務であり、皆、律儀に守っている。ゲートの奥には、「鹿の狩猟中の可能性があるので、フットパスから逸れないように」との注意書きが書かれていた。ゴルフ場の脇道や牧草地など様々な場所を通るフットパスが存在するなか、注意書きも様々で、そこから先はフットパス使用者の判断・責任となる。
左右をなだらかな山に囲まれたグレン・カラターのフットパスを歩いていくと、一帯の丘全体に白い点々が散らばって見えてくる。放し飼いされている毛むくじゃらの羊たちが、移動しながら黙々と草を食べているのである。自由に「登山」をする羊もいれば、「川遊び」をする羊も。きっと遥か昔からこの風景は変わっていないのだろう。
ブレマーの羊飼いや牛飼いなど家畜業者達は、昔から家畜を引き連れてこのカラター湖を横目にグレン・カラターを抜け、グレン・ドールを出て南東にあるグレン・クローバ(Glen Clova)で開かれる市場との間を行き来していた。
そこに山があり、湖があり、皆が行き来するための道がある。人々がそれを当然のこととして暮らしていた19世紀後半のある時、「事件」は起こる。オーストラリア帰りの資産家・Duncan MacPhersonが、カラター湖の南方にあるグレン・ドール・エステート(Glen Doll Estate)を買い取り、私有地として、一般人の出入りを禁止してしまったのだ。フットパスを長年使用して生活してきた周辺住民たちは突然の立入禁止に驚き、反発し、抗議した。
この時、MacPhersonへの抗議の意を示すべく、彼が立入禁止にした区域の中を「歩く権利」の張り紙を貼り歩き、立入禁止撤回を叫んだ若い羊飼いがいた。その青年の名はJohn Winter。彼の名にちなんでルートにつけられた呼び名が、「Jock’s Road」だ。
この争いは、John Winterを含む住民たちをバックアップする「the Scottish Rights of Way Society 」(現Scotways)対 MacPherson の法廷闘争へと発展。さらに下院の議題として取り上げられるまでにもつれ込み、最終的には立入禁止撤回でようやく決着が着いたのである。長引く闘争で両者ともに破産の結末を迎えたと伝えられている。この闘争が、のちにスコットランドの先進的な土地改革法案を生み出す原動力になったとも言われている。
John Winterら住民とScotwaysが歩く権利を勝ち取ったJock’s Roadの周辺は、世界的にも貴重なヘザーの湿地帯(open heather moorland) に囲まれ、山岳高地特有の生態系を見ることができるエリアだ。現在地球上に残っているヘザー湿地帯の4分の3はイギリスにあり、その大半はスコットランド内にある。大変貴重な生態系なのだ。
夏にヘザー湿地帯で過ごすシギ科鳥類Common Curlew(イギリス国内保護指定種)やMountain hare(許可なしの狩猟禁止種)、スコットランドで一番大きな鹿類であるRed Deerなどにも遭遇できる。筆者が訪れた際には、ヘザーの茂みから大きな鳴き声を上げながら飛び出すアカライチョウ(Red Grouse)にも何度も遭遇した。スコッチウィスキーの銘柄「Famous Grouse」のパッケージとしても有名なこのアカライチョウだが、近年徐々に個体数が減りつつあり、ヘザー湿地帯の減少がその一因ではないかとも言われている。
もしJock‘s Roadを「歩く権利」が失われていたら、いまこの目の前に広がるスコットランドらしい雄大な自然を楽しむ機会さえ、現代に生きる私たちには与えられなかった。「歩く権利」闘争の勝利は、当時闘った本人達の通行権を守っただけでなく、後世代が自然と触れ合うことのできる権利も守ったのである。
今回歩いたのは、Jock‘s Roadの一部の平坦な部分のみ。本来は全長約20kmで、カラター湖を超えた辺りからグッと勾配が急になり、フットパス全体の高低差は約700mになる。中級から上級者向けとされており、ある程度のトレッキング経験者であればチャレンジ可能だが、冬はベテラングループの死亡事故が起きたこともあり、雪や嵐などの悪天候には慎重な判断が必要とされる。
アバディーン市・州観光局サイト:https://www.visitabdn.com/what-to-do/great-outdoors/lochs/view/loch-callater
スコットランド政府観光局サイト:https://www.visitscotland.com/info/see-do/glen-doll-p2569071
文・写真/藤木香 (元カナダ在住、現スコットランド在住ライター) 米大学院環境学修士号取得後、約5年間のカナダ生活を経て、2019年よりスコットランド在住。海外関連記事執筆や取材コーディネーター等として活動中。海外書き人クラブ会員(https://www.kaigaikakibito.com/)。