稲田弘さん(トライアスリート)
─過酷な「アイアンマン世界選手権」を最高齢で完走─
「70歳から挑戦。悲しみを乗り越えるため、日本人の誇りを見せるため、走り続けます」
──世界最高齢の“アイアンマン走者”です。
「毎年10月にハワイ島のコナで開催されるアイアンマンレースの世界選手権に2011年から参加しています。昨年で10年連続出場になるはずでしたが、新型コロナウイルスの影響で大会が中止になってしまいました」
──トライアスロン競技の最長距離の種目。
「水泳3.8km、自転車180kmのあとフルマラソンを走ります。総距離にして約226km。よくオリンピックなどで見るスタンダード・ディスタンス(距離)のトライアスロンは、スイム1.5km、バイク40km、ラン10kmで、総距離51.5kmです」
── 御年88歳、昭和7年生まれですね。
「大阪で生まれ、戦時中、小学4年のときに一家で和歌山の田辺へ疎開しました。父は文房具店を営んでいました。戦争が激しくなると、沖合に停泊した米軍の航空母艦から爆撃機が大阪を目指して田辺の上空を飛んでいく。空一面を真っ黒に埋め尽くすほどの、何百機という飛行機です。大阪を空襲して、帰りがけに余った爆弾を田辺に落としていく。同級生も随分亡くなりました」
──終戦時は中学生でした。
「戦後しばらくしてから衆議院選挙がありました。当時は米軍統治下ですから司令部が視察にやってきます。私は新制中学の3年生でしたが、英語が得意で通訳をつとめました。2年生までいた旧制中学にハーバード大学帰りの優秀な英語の先生がいて、可愛がってもらって、私も一生懸命勉強していたのです」
──スポーツ好きもその頃からですか。
「中学では陸上部に入っていましたが、足は遅くて大会では補欠でした。高校に入ると、囲碁仲間だった数学の先生が山好きで、誘われて槍ヶ岳に登りました。一応、山岳部という形をとっていましたが部員は私ひとり。山岳部をつくれば学校から補助金が出るので、先生はそれが目当てだったのでしょう(笑)。でも、これがきっかけで大学でも山岳部に入り、その後も山登りは私の生涯の趣味となりました」
──いい出会いがあったのですね。
「そういう意味では、本当に恵まれていたと思います。高校3年のとき父を亡くし、一度は大学進学を諦め店に立っていたのですが、担任の先生が母親に“大学に行かないのは惜しいからぜひ行かせてやってほしい”と言ってくれて、母の実家の援助を得て早稲田大学へ進学することができました」
──どんな学生生活を送っていたのですか。
「入学当初は貧乏学生だから外食なんてできない。近くのパン屋でコッペパンを買って、市場で捨てられるキャベツの外側の部分を分けてもらって炒めてパンと一緒に食べるといった暮らしぶりでした。山小屋に荷物を運び上げるボッカという仕事など、いろいろなアルバイトもやりました。そのうち、山岳部と並行して活動していた大学のグリークラブ(男声合唱団)から4人選抜される形でコーラスグループを組み、米軍キャンプを回って歌うようになりました。これがすごく割のいいバイトで、月8000円くらいになった。食生活も向上し、仕送りをしてもらわなくてよくなりました。卒業後に就職したNHKの初任給が7600円でしたからね」
──NHKではどんなお仕事を。
「社会部の記者として駆け回っていました。結婚後も8年間は単身赴任でした」
──奥様との出会いは。
「女房は和歌山の白浜海岸で観光バスガイドをしていましてね。現地で民謡の串本節のコンクールがあるというので大阪から取材に行ったら、そこに女房も出場していた。そのあとまた白浜に取材に行く機会があって、偶然、彼女がガイドをつとめるバスに乗り合わせて“あれっ、あのときの”と。そのあと文通から始めてつきあうようになり、結婚しました。家のことはすべて女房任せで好き勝手やらせてもらっていましたが、一緒にあちこちの山にも登りましたね」
──トライアスロンを始めた経緯は。
「私が60歳のとき、女房が血小板減少性紫斑病という難病にかかってしまい看病のため仕事を辞めました。出血したら止まらなくなってしまうので、ひとりで家に置いておくわけにはいかなかった。ほんとにやさしくていい女房で、私は惚れてましたからね。とはいえ、そのまま家にとじこもっていたら自分も体力が落ちて駄目になってしまう。ちょうど家の前にできたばかりのスポーツジムがあり退職して3日目に入会しました。
そこにプールがあったので水泳を始めて。3年くらい経った頃、近くでアクアスロン(水泳+長距離走)の大会があり、水泳仲間と出場したら、参加者の多くがトライアスロン用のバイクで乗り付けていたんです。そのカッコよさに魅せられて、69歳のときとうとう思い切って自分のバイクを買いました。その翌年、70歳で初めてトライアスロンのレースに出て完走しました」
「女房を亡くしたあと茫然自失に。泳ぎ、走ることで悲しみを克服した」
──奥様も応援してくれていましたか。
「女房には詳しいことは知らせてなかったのですが、私が何かに挑戦していることは分かっていました。その頃は自宅での療養は難しく入院生活を送っていたのですが、私が初めてトライアスロンのレースに出た2か月後に急逝してしまいました。亡くなる2日前、病院で元気に67歳の誕生祝いをしたばかりだったので、余計にショックだった。それから3か月ほどは茫然自失してしまって、はたから見ても譫言(うわごと)ばかり言っているような状態だったと、あとで息子から聞きました」
──それでも、なんとかレースに復帰した。
「女房は亡くなる前、“私は大丈夫だから、どうせ何かやるなら私の分まで思い切って一生懸命やってください”と言ってくれていました。そうやって背中を押されていたんだから、やるしかないと思った。あのときトライアスロンがなかったら、どうなっていたか。無我夢中で泳ぎ、走ることで、どうにか悲しみを乗り越えられた。女房のお骨は8年間お墓に入れず、側に置いていました」
──やがてアイアンマンレースに辿り着く。
「何度かスタンダード・ディスタンスのレースに出たあと、新潟の佐渡で行なわれたミドル・ディスタンス(総距離131㎞)のレースにも挑戦して完走し、“意外とやればできるものだ”という手応えを摑みました。さらに距離が長くて、世界一過酷なアイアンマンレースというのがあると聞いて、76歳のとき長崎・五島で開催されたアイアンマン・ジャパンに挑戦してみたのです」
──初挑戦で完走はできたのですか。
「ラン2周回の1周目で制限時間オーバーとなり、完走できませんでした。大きな石の上に座ってうなだれていると、大会役員のひとりが近づいてきて“我流でやっていても駄目。千葉には『稲毛インターナショナル』というトライアスロンクラブがある。そこで練習してはどうか”と助言されました。『稲毛インター』はトライアスロンのオリンピック代表選手なども所属する名門クラブ。76歳という自分の年齢を考えてしばらく躊躇していましたが、3か月後、思い切って連絡してみたら“会費さえ払ってくれればいいですよ”とあっさり入会を認められました」(笑)
──そこで自己変革に取り組んだ。
「トップ選手と一緒に練習して感じるのは、練習に取り組む姿勢、意識の高さ。目の色からして違います。バイクのコースではオリンピアンが“稲田さん、ついてきなさいよ”と鼓舞してくれたりもする。間近でフォームを見て勉強できて、効率のいい走りができるようになって飛躍的に力がつきました。
2011年、78歳で韓国・済州島のトライアスロンで成績を出して、ハワイのアイアンマン世界選手権への出場権を初めて獲得しました。その年は調整に失敗して完走は逃しましたが、翌年、タイのプーケットの大会を勝ち抜いて再び出場し、年代別のカテゴリーで優勝することができました。以降、連続出場をする中で2016年と2018年に最高齢完走の記録をつくることができました。同年代の出場者はいませんでしたから、自然と年代別カテゴリーの優勝も勝ち取った」
──栄養面にも配慮しているのでしょうね。
「日々の食事にはかなり気を遣い、サプリメントも摂ります。昼はトレーニングの合間に外ですますことが多いのですが、朝夕の2食は栄養士にも相談して独自のメニューを考案し自炊しています。朝は14種類の野菜やキノコに鶏の胸肉などを入れて煮込んだスープに、ライ麦パンと豆乳、バナナとリンゴも欠かさない。夜は具だくさんの味噌汁と、目刺しと納豆キムチに大根、茄子、胡瓜などの漬物と梅干し、生卵をかけた玄米ご飯です。玄米ご飯は朝炊いてさましておき、あえて冷やご飯にして食べることで栄養価を高めています」
「この年齢になっても進化を実感。生きている喜びを満喫しています」
──今までで最も記憶に残るレースは。
「2015年のハワイのアイアンマン世界選手権ですね。この年は大会の規定で制限時間が従来より10分短縮され、16時間50分でした。私は途中で吐いてしまってものが食べられなくなり、エネルギー不足と熱中症でふらふらになってしまって、制限時間が刻々と迫ってきた。ゴール周辺にはたくさんの観客や出場者がいて応援してくれていたのですが、私はゴールラインに続く花道に入って50mくらいのところで一度転び、ゴール直前1mくらいのところでまた転倒し、ゴールタイムは16時間50分5秒でした」
──制限時間の、わずか5秒オーバー。
「このときのゴールシーンがとてもドラマティックだったと世界中のメディアが取り上げて、私のフェイスブックにも多くの人からメッセージが届きました。この出来事からモチベーションが変わりました。自分のためだけじゃなく、世界中の人々の期待に応えたいという気持ちで走り続けています。古い言い方かもしれないけど、大和魂というか日本人の誇りを見せたいという思いがある。大袈裟に言うと、“期待に応えないと生きて日本に帰れない”くらいの気持ちで走っています」
──体力維持に日々の鍛練が欠かせませんね。
「クラブではオリンピアンとほぼ同じ練習メニューに取り組みます。クラブが休みの日は自宅から15㎞離れた女房の墓参も兼ね、自主練習をしています。練習の段階からつねに“これでアイアンマンレースを完走できるのか”と自問自答し、自分を追い込んでいます。
もちろん、一日一日、体力の衰えは感じます。骨ももろくなって怪我も増えている。そんな中でも工夫して、今まで使わなかった筋肉を意識して使ってみたりすると、すごく効果を感じることがある。この年齢になっても進化してるんじゃないかと思うと嬉しくなって、ひとけのない場所をバイクで走りながら“俺は今、生きてるぞ~”と叫ぶこともあります。生きている喜びを満喫しています」
──まだまだ走り続けますか。
「当面の目標は、90歳でハワイの世界選手権に出場し最高齢完走記録を更新することです。レースはその辺りが限界で、終わりにするかもしれない。というのも、私には、他にまだまだやりたいことがたくさんあるからです。
日本百名山のうち、これまで72まで登っているので、残りの28の山を登りたいし、私を応援してくれた世界各地の人々を自転車で訪ねてお礼を言って回りたいという気持ちもあります。遠からずやってくる人生の終焉を見据えながらも、死ぬまで何かをやり続けていたいし、最後は自分なりに満足して女房のところに行ければいいなと思っています」
稲田 弘(いなだ・ひろむ)
昭和7年、大阪府生まれ。早稲田大学卒業後、NHKに勤務し社会部記者として働く。70歳でトライアスロン(標準距離)を始め、78歳でアイアンマンレースの世界選手権に初挑戦。以降、同選手権に毎年連続出場する中で、3度の年代別優勝と2度の最高齢完走を果たす。現在も、90歳での最高齢完走記録の更新を目指し、現役選手として厳しいトレーニングに向き合っている。
※この記事は『サライ』本誌2021年11月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/矢島裕紀彦 撮影/宮地 工)