リポート/西村覚良(岐阜県山県市在住の郷土史家)
大河ドラマ『麒麟がくる』前半の舞台・美濃(岐阜県)では、光秀にかかわる多くの伝承が残されている。そのため、岐阜県内だけで、恵那市、可児市、岐阜市の三市に「大河館」が設置されるなど盛り上がりをみせている。ここでは、岐阜市内から車で約30分、斎藤道三と戦い、敗れた名門・土岐氏最後の城・大桑城があった山県市を紹介したい。地元の郷土史家・西村覚良さんによるリポートをお届けする。
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岐阜県山県市中洞の白山神社に隣接した高台に、本能寺の変で織田信長を攻め殺した明智光秀の墓が祀られている。地域の人たちは、美濃源氏土岐氏の家紋・桔梗に因んで「桔梗塚」と称して、毎年4月と12月に供養祭を勤めている。
この桔梗塚は、山県市役所の東を通る国道256号線を北東に約4km程進み、長良川の支流武儀川を渡った山間のところに位置している。武儀川沿いの村々は、古代から紙漉きを行なっていたといわれ、とりわけ中世においては日本屈指の和紙生産地となっていた。
ここで漉かれる紙は、京都の公家や寺院にとって垂涎の的であったといわれる。市役所から真北を望むと約3kmの所に、後述する古城山(407.5m)が見える。
この地の桔梗塚に関わって、明智光秀が「本能寺の変」後も生き延びて関ヶ原の戦いに参陣しようとしたことを始め、この中洞で光秀が美濃国守護土岐氏の嫡孫として誕生したこと、可児市に所在する明智城主明智氏の元へ養子して明智光秀と名乗ったことなどが伝えられている。
明智光秀の誕生
1526年(大永6)8月15日光秀は、第8代美濃国守護土岐成頼の四男・基頼と中洞の豪族中洞源左衛門の娘お佐多(後に松枝)の子として、美濃国武儀郡中洞村(現:山県市中洞)古屋敷で生まれた。
光秀を身ごもった時母・お佐多は、「天下に将たる男子か、秀麗なる女子かを授けたまえ」と、武儀川の岩の上で水垢離をして願ったと云われている。この岩は「行徳岩」と名付けられ、今も清流の中にあって母の願いを留めているようである。なお、光秀が生まれた時に使われたという産湯の井戸は、中洞の古屋敷に隣接する白山神社鳥居の前に井桁の枠組みが往時を偲ばせてくれる。
光秀が生まれる前の1490年代から1520年代(明応・永正・大永)頃の美濃国は、守護代を始め尾張・越前・近江の国々を巻き込んで守護職の相続争いが絶えなかった。
明応年間には、守護土岐成頼が四男基頼に守護を継がせようと「舟田合戦」や「城田寺合戦」をおこしたが、結果長男政房との相続争いに負け、1495年(明応4)第9代守護は土岐政房が補任されることになった。そこで基頼は隠棲せざるを得なかったのである。
ついで永正年間には、土岐政房から土岐頼武に相続する時も権力抗争が激しくなり、1519年(永正16)土岐頼武が第10代美濃国守護になったものの、「永正の内訌」と云われる守護が越前などへ避難しなければならないなど、政治的に不安定な時期となってしまっていた。
さらに、1525年(大永5)6月、光秀が生まれる前年には、後に「濃州錯乱」と称されるようになる、長井一族が土岐守護家や斎藤守護代家を山中に追放するという事件が勃発した。長井一族には後の斎藤道三の父、長井新左衛門尉が新しい勢力として台頭していたのである。ちなみに、守護家や守護代家が避難した山中は明らかになっていないが、先に述べた武儀川流域の紙漉き地帯を中心に、西は土岐氏の菩提寺・南泉寺が所在する大桑村から、東は守護代斎藤氏が代々再興庇護してきた汾陽寺が所在する谷口村(現:関市谷口)一帯ではないかと想像できよう。
時を経て光秀が7才になった1532年(天文元)、父基頼が病死した。それまでの間、恐らく父親から誉れ高い美濃源氏の棟梁・土岐氏のこと、守護家累代のこと、桔梗一揆のことなど、土岐一族の文武両道に秀でた武士・武者の生き方を薫陶されたと思う。また、後の大桑城を仰ぎ見ながら、南泉寺の開山・仁岫宗寿から、時代を生き時代を創る人間の生き方を学んだに違いない。
土岐基頼の死去により、基頼の遺託を受けた祖父の中洞源左衛門は、光秀を美濃国可児郡の明智城(現:可児市瀬田長山)に伴い、明智光綱に預けることにした。その後光秀が11歳の時、1536年(天文5)、正式に明智光綱の養子となり、明智光秀と名乗った。明智光秀の誕生である。
【山崎の戦いで死去したのは影武者である。次ページに続きます】