山崎の戦いで死去したのは影武者である
1582年(天正10)、6月1日総大将明智光秀・56才は1万3000人の手勢を率いて、丹波亀山城を出陣。美濃出身者では、美濃国守護代家の流れの斎藤利三や中洞の隣村出身の恩田孫十郎らが従った。6月2日未明、本能寺を急襲し織田信長を討ち取ることが出来たが、光秀には誤算もあった。
光秀は、備中高松城攻めから大返しで戻ってきた羽柴秀吉と、6月13日天王山(現:京都府大山崎町)において激突することになった。「山崎の戦い」では光秀軍1万6000人の軍勢に対して、秀吉軍は4万人余り.光秀軍は次第に敗戦の色が濃くなった。
その時、武将の一人・荒木山城守行信が、「明智日向守光秀の影武者になること」を願い出た。そこで光秀はやむなく生まれ故郷・美濃国武儀郡中洞村に落ち延びることにした。
そして光秀は、荒木の忠誠心に深く感謝し、この事実を子孫に伝えるため、荒木の「荒」と恩義を深く感じての「深」を名字にして、「荒深小五郎」と名乗り隠棲した。
なお、影武者となった荒木信行は残党狩りにあい山崎の竹藪で竹槍に刺されて死去。この事をもって、世間では「明智光秀の三日天下は終わった」といわれている。しかし荒深小五郎(明智光秀)は中洞で生きていたのである。
月日がたって1600年(慶長5)9月、東軍・徳川家康と西軍・石田三成が、美濃国不破郡関ヶ原(現:岐阜県関ヶ原町)で、天下分け目の激戦が始まる気配となった。
そこで荒深小五郎は早速徳川家康に味方するため、村人と共に軍備を整え中洞から関ヶ原に向けて出陣した。途中には根尾川など大河を渡らなければならず、洪水に遭遇して荒深小五郎は馬もろとも溺れ死んでしまったのである。享年75才の生涯であった。
従軍した村人は明智光秀の遺体を中洞へ迎え、弔い、塚を築いた。
そして光秀は美濃源氏の棟梁・土岐氏の生まれであることから、その塚は誉れ高い桔梗紋に因んで「桔梗塚」と名付けられた。「桔梗塚」の近くには、光秀が信仰した白山神社と光秀の母が建立した阿弥陀堂があることから、この2か所で4月と12月の2回、荒深姓の人達が中心となって地域の人達が「明智光秀公供養祭」を続けている。
「本能寺の変」の後も、明智光秀が姓名をかえて中洞で隠棲していたこと、関ヶ原の戦いに徳川家康に味方して出陣したが途次で大河の洪水で溺れ死んだことなどを、尾張藩士・天野信景が1709年(宝永6)年頃の随筆集『塩尻』に記述していた。
本文の中では、隠棲時の姓名は「荒深小五郎」でなく「荒須又五郎」となっているが、「明智光秀宛の織田信長感状」を見せながら、不立という中洞に住む禅僧から聞いたとしている。そして筆者天野は、「ひそかに逃れ隠れるということはままあること」と、この生存説を「異説」としている。
江戸時代の中洞村始め近隣の岩佐・谷口・佐野など武儀川流域などの美濃和紙生産地域は尾張藩の領地で、尾張藩は度々領地内の田畑・戸口・寺社・特産品などを調査していた。後年になってまとめられ地方史研究に活用されている『濃州徇行記』や『岐阜志略』なども、尾張藩の藩士が調査し著した物で、天野の調査・随筆執筆はその魁であったといえよう。
いずれにせよ、すぐ近くに美濃国守護土岐氏の居館・大桑城が判然として時代の表舞台にあったこと、日本屈指の美濃紙生産地帯で都などの多方面からの情報が入りやすかったこと、そして、光秀に仕えた義弟の恩田孫十郎や斎藤利三及びその娘・お福・春日局、荒深姓の子孫などによって、明智光秀生存説は、遅くとも江戸時代中期・18世紀初頭には中洞を中心とする地域と深い関わりの中で受け継ぎ伝えられて来たといえよう。
一方、光秀生存説を否定する根拠も今・現在持ち合わせていない。