大和興福寺一条院の僧覚慶(後の足利義昭/演・滝藤賢一)はやがて越前を経て、織田信長(演・染谷将太)の支援を受けて上洛、第15代将軍となる。だが、ほどなく信長との関係は破綻し、諸国を流浪することになる。室町幕府将軍の〈お家芸〉ともいえる諸国流浪は10代将軍義稙から始まった。
かつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史読本』(2015年休刊)の元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏がリポートする。
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元亀4年(1573)、織田信長との対立から京都を追われた足利義昭は、それから約15年も都に帰還することはできず、各地を転々とすることとなった。流浪の将軍、彷徨える将軍ともいわれる所以だが、実は室町時代後期の足利将軍のなかには、京から離れて亡命生活を余儀なくされた将軍が他にもいた。
義昭の父である12代将軍義晴も、25年という比較的長い将軍在職期間を誇りながら、弟の義維(よしつな)を擁立した細川晴元によって京を追われ、近江(滋賀県)の朽木谷、ついで観音寺の山麓にある桑実寺という寺に身を置き、ここで約3年間、幕政を見るという時期があった。
義晴はいったん京に戻ることができ、息子の義輝に将軍職を譲ったが、その後、再び政情不安に襲われ義輝とともに近江に亡命し、最後は病に倒れ、近江の穴太(大津市)で亡くなった。自害したとの説もある。
父とともに近江を逃れた義輝は、その後も政治対立や政情不安が原因で何度も近江に避難を繰り返した。約20年の将軍在職中、在京できたのは10年ほどだった。
こうした流浪の将軍の端緒となったのは、10代将軍義稙だった。義稙(当初は義材)の父は8代将軍義政の弟で、応仁・文明の乱の原因ともなったといわれる足利義視。応仁・文明の乱の結果、9代将軍には義政の息子義尚が就任したが、この義尚と義稙は従兄弟ということになる。
義視は兄の義政と対立したため、息子の義稙を連れて美濃(岐阜県)で隠棲生活を送っていた。義稙はおよそ将軍となる可能性はない少年時代を送ったが、将軍義尚には後継ぎが生まれず、健康にも不安があったため、義尚の生母で義政夫人の日野富子は、次期将軍候補として義稙に白羽の矢を立てた。
富子と義視は、将軍後継を巡って対立関係にあったと一般的には思われているが、実は義視の妻で義稙の生母となった日野良子は、富子の妹なのだ。つまり、義稙は富子の甥という関係になる。
こうした関係を背景に、足利義尚が長享3年(1489)に病死すると、義稙は美濃から京に呼び返され、10代将軍の座に据えられた。将軍となった義稙は、近江の六角氏討伐に乗り出す。六角氏討伐は、先代将軍義尚が始めた軍事行動で、いったん六角氏を山岳地帯に押し込めたものの、義尚の病死後、再び勢力を盛り返した六角氏は、幕府への反抗を開始していた。
新将軍となった義稙は、六角氏を放置すれば将軍として権威は地に落ち、面目は丸つぶれとなる状況にあったのだ。
近江の六角氏攻めは、幸いにして勝利を収めた。これに気を良くした義稙は、続けざまに河内(大阪府)や越前(福井県)への遠征を計画する。
【明応の政変で京都を追われた将軍義稙。次ページに続きます】