明応の政変で京都を追われた将軍義稙
しかし、これは諸大名の反発を招いてしまう。特に最大の実力者と目される細川政元は、もともと義稙の将軍就任に反対の立場だったこともあり、ついに明応2年(1493)4月、将軍不在の時をねらってクーデターを起こした。あらかじめ日野富子らの同意を得ていた政元は、天龍寺香厳院の清晃(せいこう)を担ぎ出し、義稙に代わる新将軍の座に着けてしまったのだ。
清晃は、8代将軍義政の弟で、関東に派遣されて堀越公方となった政知の遺児だった。これが11代将軍義澄で、義稙の従兄弟にあたる。
明応の政変とよばれるこのクーデターによって、義稙は将軍の座を追われ、細川の重臣邸に幽閉されてしまう。しかし、約2カ月後、義稙は幽閉先を脱出し、越中(富山県)の放生津(ほうじょうづ)に向かった。クーデターの際に自害した、義稙の重臣畠山政長の領国だったからだ。
将軍職を失ったとはいえ、越中に移った義稙は「越中公方」とも呼ばれ、まだ将軍としての権威を完全に失ってはいなかった。義稙は各地の大名にたちに「打倒足利義澄」「打倒細川政元」を命じて、京への帰還をうかがうようになる。
明応8年(1499)には、北国の諸大名を糾合して上洛を目指したが、越前(福井県)一乗谷の朝倉貞景の協力が得られずに失敗に終わった。ところがこれでくじける義稙ではない。同年12月には周防(山口県)にまで赴き、周防守護の大内義興を頼った。
それから約7年後の永正4年(1507)6月、義稙を京から追放した張本人である細川政元が、二人の養子の家督争いが原因で殺害されるという事件が起きる。義稙は翌年4月、ついに大内水軍に守られながら瀬戸内海を船で進み、備後(広島県)鞆の浦を経由して和泉(大阪府)の堺に上陸を果たした。義稙はただちに上洛し、京を占拠して将軍義澄や、これを支える管領細川澄元を追放。なんと13年ぶりに将軍職に返り咲くことになる。
けっして将軍の座を取り戻すことをあきらめず、長年の流浪生活に耐えた義稙は、ついに目的を達したのだった。めでたしめでたし……と言いたいところだが、残念ながら、義稙の流浪生活はこれでは終わらなかった。
足利義稙政権は、細川澄元に代わって管領となった細川高国と、周防以来、義稙を守り続け管領代となっていた大内義興の二人に支えられていた。ところが永正15年(1518)、その義興が領国で起きたトラブルで帰国してしまうと、残された義稙と細川高国の関係がおかしくなってくる。
すると、今度は前将軍の足利義澄(すでに永正8年に病死)とともに京から放逐され阿波(徳島県)に避難していた細川澄元が、永正16年に兵をあげる。かつて澄元から管領の座を奪い取った高国がさっそく迎え撃つが、あえなく敗北。高国は将軍義稙とともに近江に逃げようとするが、あろうことか、義稙はこれを拒否する。
義稙は自らの政治にいちいち口を挟む細川高国を疎ましく思うようになり、ひそかに細川澄元と通じていたのだ。高国からすれば、知らない間に上司がライバル企業と手を結んでいたようなもので、たまったものではない。
結局、高国は近江で態勢を整えて京に攻めよせ、澄元を打ち破った。敗れた澄元は阿波に逃げ帰る。京には細川高国と足利義稙が残ったわけだが、当然、両者の間は険悪となり、修復不可能な状態になっていた。
大永元年(1521)、とうとう義稙は京を出奔し、和泉の堺で打倒高国の兵をあげようとするが、この義稙の節操のない振る舞いに賛同する者はほとんどいなかった。高国は、義稙に代わって11代将軍義澄の遺児を次の将軍の座に着けた。これが足利義晴。冒頭で触れたもう一人の「流浪の将軍」だ。
その後の義稙は、淡路(兵庫県)に逃げて再起を図り、一時は堺にまで戻ったりもしたが、結局は味方となる大名や兵力を集めることができず、大永3年(1523)に阿波の撫養(むや/鳴門市)で没した。満56歳だった。
時代に翻弄され、あてのない流浪を余儀なくされた悲劇の将軍ではあったが、本人にもそれなりに「問題」があったのも確かなようだ。
安田清人/1968年、福島県生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊『歴史読本』(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は「三猿舎」代表。歴史関連編集・執筆・監修などを手掛けている。 北条義時研究の第一人者山本みなみさんの『史伝 北条義時』(小学館刊)をプロデュース。