文/藤田達生(三重大学教授)
天正10年6月2日、電光石火の如く織田信長と嫡男信忠を葬った明智光秀ではあるが、その後の動きが鈍く、後手後手になってしまったため、山崎の戦いにおける惨めな敗戦につながった、というのが一般的な見方ではなかろうか。
これこそ、光秀が発作的に天下を狙ったとする「単独説」が広く人口に膾炙してきた所以でもある。
拙著『明智光秀伝―本能寺の変に至る派閥力学』では、2018年に筆者が紹介した新出史料「溝口文書」をもとに、無傷の大軍団を温存した柴田勝家が、越前北庄城(福井市)を一歩も出られなかった理由を読み解いた。その結果、本能寺の変後の光秀の対応は間違っていなかったことを指摘した。
光秀の変後の軍事行動は、畿内制圧と織田旧臣の孤立化させることが目的だった。それは、見事に成功していた。あわせて、安土城に入城して6月7日に勅使を迎えて、朝廷からの承認を得たことも重要である。着々と新政権の地盤固めを進めていたのである。
畿内制圧については、光秀は、近江・山城・大和・河内へと積極的に出陣を繰り返している。安土城の留守居だった蒲生賢秀の場合は、信長の訃報がもたらされるや、子息の氏郷を呼んで、変の翌日にあたる天正10年6月3日卯刻(午前5時から午前7時の間)に信長の一族を安土城から居城日野城(滋賀県日野町)に移し、明智勢の進攻に備えた(『信長公記』)。
そこに光秀から、多賀豊後守や布施忠兵衛が派遣されて味方に付けば近江半国を遣わすとの条件が示された。このように、畿内諸地域では光秀方の国人・土豪層が周辺の領主を組織したのであろう。
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