大坂城の織田旧臣の孤立化

織田旧臣の孤立化であるが、大坂城に注目したい。信長の三男・信孝と織田家の重臣・丹羽長秀は、奇しくも6月2日に予定されていた四国出陣に備えて、大坂に結集していた。ところが、本能寺の変の情報によって身動きがとれなくなったため、信孝らは大坂城に入城した。

その後、彼らは羽柴秀吉が上方に帰ってくるまでの間、光秀の女婿・織田信澄を6月5日に大坂城二の丸千貫櫓で殺害したぐらいで、動くことができず、籠城したままだった。本来、変後の抵抗拠点となるはずだった大坂城ではあるが、信孝らが積極的に城外に打って出たことは確認できない。

このほかに抵抗拠点となるべきは、勝家の北庄城(現在の福井市)だった。当城に帰還した勝家は、若狭に残る丹羽長秀の家臣溝口秀勝の留守居に宛てて、(天正10年)6月10日付で書状(「溝口文書」)を送った。それによると、越後に侵入した時点で本能寺の変の情報を得て、6月9日に北庄城に帰陣したと記す。

大坂をはじめとする諸地域の反光秀方勢力が相互に連携・協力して、一刻も早く光秀を討ち果たしたい。そのうえで、信長在世時のように戻したいと語っている。このような認識と希望は、勝家ばかりではなかったであろう。しかし、山崎の戦いが終結するまで、勝家は大坂城との交信ができなかった。若狭から北近江にかけての地域において、光秀方勢力が実力を発揮していたからである。

光秀方の一翼に属したのは、若狭守護家で足利義昭の甥にあたる武田元明だった。
彼は、本能寺の変の情報に接するやいなや、光秀方に与して若狭衆を組織して近江へと出陣。長秀の佐和山城(滋賀県彦根市)を落城させた。

室町幕府将軍足利義昭は、本能寺の変当時、鞆の浦(広島県福山市)にいた。写真は御所も置かれた常国寺。

室町幕府将軍足利義昭は、本能寺の変当時、鞆の浦(広島県福山市)にいた。写真は御所も置かれた常国寺。

また元明の従兄弟にあたる近江北郡守護家の京極高次も同時に蜂起して、羽柴秀吉の長浜城(滋賀県長浜市)を攻撃し乗っ取っている。

このような動きが、北国街道を塞ぎ北庄城─大坂城間の意思疎通や情報共有を遮断したため、勝家が近江めざして出陣できない最大の要因となったのである。
これは、大坂方にとっても同様に作用したと推測される。光秀方勢力による北近江路の封鎖は、成功していたのであり、これによって勝家方も信孝方も孤立したのである。

膠着状態を打ち破ったのは、秀吉の京都をめざす爆発的な進軍だったと言わざるをえない。したがって秀吉の「中国大返し」さえなかったら、上杉氏の反転攻勢や近江で展開していた若狭武田氏や京極氏の光秀との合流、長宗我部氏の摂津進軍とそれを支える菅氏ら淡路水軍の蠢動、さらには将軍足利義昭の帰洛への動きも予想され、光秀による室町幕府再興の可能性も十分にあったとみられる。

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文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。

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