室町幕府第13代将軍足利義輝殺害後、足利義栄と足利義昭が将軍位を争った。三好一党に推された義栄と織田信長に擁された義昭。従兄弟同士の争いは、義栄が第14代将軍に先んじたものの、上洛を果たさぬまま急逝してしまい、第15代将軍に義昭が就任することになる。このうち足利将軍家の血脈を現在までつなげたのが、義栄の弟義助の〈平島公方家〉の系統である。
かつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史読本』(2015年休刊)の元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏が平島公方家についてリポートする。
* * *
室町時代の後半、足利将軍は京の都に安住することができず、政治抗争の果てにしばしば洛外や他国に避難した。そして誰が次期将軍になるかは、将軍家を取り巻く実力者たちの思惑によって左右され、兄弟や従兄妹など、一族のなかから選ばれた人物が入れ替わりのように将軍の座についた。
その結果、将軍継承は「親→子」という単純なものではなく、非常に複雑になってしまった。ここでは細かな経緯をできるだけ省き、将軍位がどのように推移したのかを追い、その結果誕生した「平島公方」と呼ばれる特殊な存在について触れてみたい。
室町幕府の第11代将軍・足利義澄は、前将軍の足利義稙との将軍位争いのなかで亡くなり、義稙が将軍の座に返り咲いた。しかし、その義稙も管領の細川高国と対立して、京を追われてしまう。義稙はその3年後、逃亡先の阿波(徳島県)で死去する。
足利義澄には二人の息子がいた。足利義晴とその弟(兄との説も)の義維(よしつな)だ。義維は、阿波の守護でもある細川之持のもとに引き取られ、京から遠く離れた四国で養育されていたため、第12代将軍には義晴が就任した。
ところがこの義晴政権の安定も、長くは続かなかった。管領の細川高国と対立した同族の細川晴元が、阿波にいた義維を擁立して義晴・高国政権に挑戦したのだ。まさに、将軍の座をめぐる、兄弟の争いだ。
戦いに敗れた将軍義晴は、近江(滋賀県)へと逃亡。義維は勝利したものの、戦火がくすぶる京には入らず、堺の地にとどまり、政治をコントロールしようと図った。そのため将軍に就くことはなかったが、次期将軍と目されていたことから堺公方と呼ばれるようになる。
つまりこの時期、京には将軍が不在で、近江に逃亡した義晴と、堺にとどまる義維とが、京を挟んでにらみ合う構図になったわけだ。
【足利将軍家の血脈を伝える〈平島公方家〉。次ページに続きます】