■戦国時代も商業都市として機能

丹後府中の東西は、天橋立の北側付近から国分寺の西側までの約2.5kmということができよう。南北は、500mに満たないことから、東西にだらだら続く都市景観というのが特徴であるが、看過できないのが北部に控える山岳寺院などとの比高差である。

一色氏関係ゾーンの一角「成相寺」。

一色氏関係ゾーンの一角「成相寺」。

背後の要害の地に鎮座する成相寺(なりあいじ)は、慶雲元年(704)、真応上人の開基とされる西国28番札所である。永正4年5月に管領・細川政元と養子・澄之、若狭守護・武田元信の軍勢が丹後に侵攻した。武田方は府中城(傘松公園展望所から北東側山上につながる成相寺に至るまでの尾根上に位置する)と成相寺に布陣し、一色方は今熊野城(後述)に守護・一色義有、今熊野城の背後にある阿弥陀ケ峰城には守護代・延永春信(のぶながはるのぶ)が籠城した。

この戦いは、細川澄之(ほそかわすみゆき)と丹後の有力国衆(くにしゅう)・石川直経が和解したことで一旦終結し、細川政元は帰京する。ところが6月23日、将軍・足利義尹(あしかがよしただ)を追放し専制政治をほしいままにしていた管領・細川政元を、澄之が暗殺するという大事件が発生した(永正の錯乱)。畿内とその周辺地域に大激震が走り、本格的な戦国動乱が到来することになる。

丹後府中は、守護関係ゾーンを中心に形成され、東(籠神社)・西(国分寺)と最高所(成相寺)に宗教施設が配されるという政治・宗教都市の様相を呈していた。ここで見落としてはならないのが、『天橋立図』に描かれた約120宇もの家屋である。

東西に走る街道を挟んで、北すなわち高所が武家地区、南すなわち海岸部には町人が居住していたと推測される。「二日市」「市場」の小字が伝わることからも、商業都市としての機能も当然もっていたであろう。

■雪舟が国宝絵画を描いた本当の理由

これについては、16世紀後半頃に制作された「成相寺参詣曼荼羅」(成相寺所蔵)が参考になる。そこには、町屋が立ち並ぶ丹後府中の町並みが描かれており、天橋立をはじめ神社仏閣を参詣する人々を相手にした店舗と商人が、生き生きと表現されている。

国宝『天橋立図』には、これまでも多くの謎が指摘されてきた。ここでは、なぜ最晩年の雪舟が、80歳の老体に鞭打って周防(すおう/山口県の東部)から、遠路わざわざ当地に来て伝統的な名所絵でも伽藍絵でもなく、真景図を描いたのかについて考えたい。専門の研究者からは、「雪舟自身の作画の遍歴の中でもかなり突然変異的な作品」とまで評されていることも念頭に置きたい。

雪舟のパトロンが、周防守護・大内氏だったことは有名な事実である。雪舟は備中(岡山県西部)の出身で、幼少期に京都の相国寺(そうこくじ)に入って禅を修行し、画を僧・周文(しゅうぶん)に学んだ。寛正年間に、大内氏を頼って山口に来た。応仁元年(1467)に大内政弘の計らいで渡明し、本格的な水墨画技法を学ぶ。文明元年(1469)、帰国し、しばらく諸国をめぐった後に山口に帰ってきたが、政弘は雲谷庵にアトリエ・天開図画楼を建て厚遇したという。

『天橋立図』の制作推定年次である明応10年(1501)から永正3年(1506)の間は、政弘の子息・大内義興の時代で、明応8年12月以来、細川政元のクーデター(明応2年の政変)によって追放され山口に亡命してきた前将軍・足利義尹(よしただ)、義材(よしき)・義稙(よしたね))を庇護していた。

先述した一色義有も、足利義尹派だった。後のことではあるが、永正5年に大内義興は上洛を遂げ、義尹を将軍に再任させた。義有も永正7年に義尹に太刀・馬を送り、永正8年には上洛して義尹の指示を得て各地を転戦する。

以上の展開からは、雪舟は大内氏の味方というべき一色氏の本拠地・丹後府中に赴いたことになる。しかも、前将軍を擁して上洛のために作戦を練っていた時期だったことからも、大内氏にとって京都に近い港湾都市でもあった丹後府中の軍事的重要性に着目しての派遣だったと推定することも可能ではあるまいか。

その意味で重要なのが、先述した守護ゾーンである。それに含まれる「今熊野」に着目したい。紀州の熊野権現を勧請(かんじょう)した神社とみられるが、一色氏はここに山城・今熊野城を築いた。描かれた建造物も、神社というよりは城郭の一部とさえみることができよう。実際に、制作直後の永正4年には、今熊野から成相寺に至る地に今熊野城、阿弥陀ケ峰城、府中城、成相寺城という4城がひしめくことになる。

将軍・足利義澄を推戴した管領・細川政元と、前将軍・足利義尹を庇護した周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城7か国の守護・大内義興(おおうちよおしおき)との対立構造と、『天橋立図』の制作はおそらく無関係ではあるまい。老齢の雪舟がわざわざ当地を訪れて異例の真景図を描いたのは、パトロン大内氏の政治的意図をうけての派遣とみるのは穿(うが)ちすぎであろうか。

文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。

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