蕎麦屋で長居することは、「蕎麦屋の長尻(ながっちり)」と呼ばれ、無粋な行動の典型のようにいわれている。
反対に蕎麦屋で好まれる客は、酒をグイッとひっかけて、もり蕎麦などをザッと手繰り、さっさと店を出るような人だ。「ごちそうさん、お代はここに置いとくよ」の声に、接客係の「花番」さんが振り向いたときには、もう、暖簾の向うに遠ざかっていく後ろ姿が見える。こういう客が昔から、粋な客とされてきた。蕎麦屋の作法といったようなものが、この世界にはあるのだ。
では、店に入ったら混んでいて、見知らぬ客と相席になったとき、何か作法のようなものはあるのだろうか。
沖縄の蕎麦店『美濃作』主人・小山 健さんは研究熱心な人で、東京に出てきたときは、いろいろな蕎麦店の食べ歩きを欠かさない。あるとき、浅草・雷門にある創業1913年(大正2年)の老舗『並木藪蕎麦』を訪ねた。あいかわらず店は混んでいて、9割の座席は埋まっている。「ご相席、お願いいたします」と、花番さんに案内され、隅のテーブル席に、ひとりで座っている客と相席になった。
「失礼します」と声をかけて、小山さんは腰をおろした。向かいの客は徳利と盃を手に、「どうぞ」と、返事した。