八幡神社の総本山!国東半島「宇佐神宮」を訪ねた【半島をゆく 歴史解説編 国東半島2】

『サライ』本誌で連載中の歴史作家・安部龍太郎氏による歴史紀行「半島をゆく」と連動して、『サライ.jp』では歴史学者・藤田達生氏(三重大学教授)による《歴史解説編》をお届けしています。

文/藤田達生(三重大学教授)

国東半島取材二日目、私たち一行は八幡神社の総本山・宇佐神宮に参詣した。初日もお世話になった別府大学の飯沼賢司教授も一緒である。

堀の様な寄藻(よりも)川を渡り、立派な大鳥居をくぐり広大な境内を進んだ。まずは社務所にあたる神宮庁にお邪魔し、小野崇之宮司にご挨拶した。気さくに私たちを迎えた宮司は、戦前は国家が武神としての八幡神を大切にしたことなどをお話しいただいた。

弥勒寺跡で解説を聞く

神社庁を後に、参道の階段を登り、屋根があり額束のない宇佐鳥居(八幡鳥居)そして西大門を通過した私たちは、上宮の本殿に到着した。西大門は、文禄年間に改修されたと言われ、桃山風の豪華な造りであった。

本殿すなわち宇佐神宮本宮は、勅使門を中心に回廊が廻り、その中に本殿がある。社務所から入れていただき、参拝したうえで回廊から本殿を拝観した。左から、一之御殿、二之御殿、三之御殿と配置されており、檜皮葺の屋根に朱塗りの社殿が並ぶ、すばらしい威容であるが、国産の漆を使用するなど、本物を維持することの難しさをうかがった。

全国八幡宮の総本宮である宇佐神宮

当然と言えば当然のことながら、以前に石清水八幡宮で見たのと似た立派な本殿だった。いわゆる八幡造りである。八幡造とは、二棟の切妻造平入の建物が前後に合体した様式で、両殿の間に一間の相の間がつき、その上の両軒に接するところに大きな金の雨樋が架けられている。

二連の奥に位置する奥殿を「内院」、前殿を「外院」という。内院には御帳台があり、外院には御椅子が置かれている。内院が夜の御座所であり、外院は昼のそれと考えられており、八幡神が昼は前殿、夜は奥殿に移動することになっているとうかがう。

ここで、あらかじめ宇佐神宮と関係の深い石清水八幡宮の成立についてお話しておきたい。

■東国に荒ぶる神として現れた八幡神

石清水八幡宮(京都府八幡市)は、貞観2年(860)に宇佐神宮から八幡大菩薩が勧請されて誕生した。前年に、南都大安寺の僧行教(空海の弟子)が宇佐神宮に参籠して得た「われ(八幡大菩薩)は、近都に移座して国家を鎮護しよう」との神託により、山城と摂津の国境の男山に清和天皇が社殿を造営したのがはじまりだという。

男山は、京都の鬼門を鎮護する比叡山の反対方向、すなわち「裏鬼門」に当たる。石清水八幡宮は、平安京の境界を護る神として勧請されたのであった。それ以後、朝廷から勅使が派遣され、王城域の最高の神としての地位を確立してゆく。以後、比叡山(天台宗)・石清水八幡宮そして宇佐神宮との結合が、国家的な課題として進められていった。

ところが、天慶・承平の乱においては八幡神が武神として立ち現れる。

天慶5年(935)年、東国で平将門が反乱をおこす。当初は、板東平氏の一族内部の抗争だったが、常陸国府、下野国府、さらには上野国府を襲撃し、将門自らが新皇と称することで、国家に対する謀叛となった。ほぼ時を同じくして、西国においても反乱が勃発した。伊予国司だった藤原純友が、任期を終えても帰京せず、宇和海の孤島島に海賊を結集させて、官物や物資を強奪し始めたのだ。

将門の乱の終息からほど遠くない時期に書かれた『将門記』によると、祟りをなす御霊神として恐れられていた菅原道真の霊が、八幡大菩薩の意思を語って、将門に新皇の位を授けたと記されている。ここでは、八幡菩薩は国家神ではなく、荒ぶる神として登場しているのだ。

天慶8年7月、東西の国から諸神が入京するという噂が流れた。西から入京しようとしたのは志多羅(しだら)(良)神だった。群衆が担いだ3基の神輿は、摂津川辺郡から豊島郡そして石清水八幡宮へと向かう。その扁額には、「自在天神(道真の霊)」と書かれていたのであるが、石清水八幡宮に入る過程で「宇佐宮八幡大菩薩御社」へとすり替えられていた。天慶・承平の乱の鎮圧後に発生した、大規模な民衆運動である。

これについては、30年以上も昔の院生時代に受講した、筆者の指導教官・故戸田芳実先生(神戸大学名誉教授)の講義を思い出した。

平安時代に荘園制が展開するなかで、八幡神をはじめとする、それまで地方農民の知らなかった神々が荘園の鎮守神として勧請され、地方社会に根付いていく。志多羅神の入京はそれを示すものではないかと鋭く指摘された。中世成立期の民衆は、八幡神を地方神を超越する新しい神として推戴し、上京しようとしたのではないかと説かれたのである。

元来、八幡神も辺境の神であった。八幡神が国家神へと位置づけられるのが、天平勝宝元年(749)の八幡神の入京事件を画期とした。古代の都人からすれば、八幡神は突然出現した新しい神であった。八幡神の東大寺入りは、聖武天皇の演出だったが、九州の一地方神が大仏を拝み、それが国家的に位置づけられたのだ。

志多羅神の入京については、当然、天慶・承平の乱との関わりがある。ふたたび荒ぶる神となった八幡菩薩が、地方民衆の手を借りて石清水八幡宮に落ち着くことで、王城鎮護神から国家神へと位置づけられることになったのである。

同時にその神輿を担いだ多くの地方民衆にとって、八幡菩薩が霊験あらたかな荘園守護神として位置づくことになったと、戸田先生は仰った。現在の学界においても、鎮守社を中心とする領域型荘園村落の誕生と、志多羅神の入京は関連付けられて理解されるようになっている。

■辺境の神「八幡神」を護国の神にした藤原道長の宗教政策

長々とふれてきたのは、宇佐神宮の発展が石清水八幡宮の国家神としての地位の確立と相まっていたからである。両者の一体化は、摂関政治の全盛期を築いた藤原道長の政治構想となって実現した。これについては、宇佐神宮の西参道の南側の広大な区域にかつて存在していた神宮寺(神仏習合思想にもとづき神社と一体になって設けられた寺院のこと)・弥勒寺に着目したい。

呉橋は、天平9年(737)に当地に造営され、翌年には金堂や講堂が建立された。私たちは、跡地を歩いていくつもの礎石を観察した。発掘調査によって、金堂の前面に東塔と西塔を並べた、奈良の薬師寺と同じ伽藍配置であることが確認されているそうだ。

明治維新まで存在した弥勒寺の礎石

弥勒寺は、勅使が境内に入る時に利用する呉橋を渡ったところに位置する。現在でも、屋根の付いた優雅なこの橋は皇族や勅使のみが通行を許されている。平安時代からあるというこの橋の名には、中国の呉の人が架けたという由来がある。飯沼教授からは、ベトナムのホイアンにある来遠橋(日本橋)と似ていることを教えていただいた。戦国時代に造られた日本人町と中華街を結ぶ石造の橋であるが、確かにその通りである。

皇族や勅使のみが渡れる呉橋

弥勒寺の講師に、豊前の豪族出身の元命という僧侶がいた。彼は藤原道長の庇護のもと、治安3年(1023)に石清水八幡宮の最高位である別当の地位を得る。道長は、宇佐神宮と石清水八幡宮との一体化を構想しており、元命を通じてそれが進められ、摂関政治にふさわしい宗教秩序を形成してゆくことになる。

元命は、治安4年には筥崎塔院を師資相承することが認められ、筑前国一宮である筥崎宮(福岡市)をその傘下に置いた。あわせて、九州全域の八幡社を組織してゆく。元命にとって、得意絶頂の時期だったと思われるが、同時に弥勒寺領荘園も最大規模となった。宇佐神宮は、九州最大の宗教権門へと成長したのである。これは、当社が太宰府の支配から自由になったことを示すもので、まさしく九州における中世の誕生を示す出来事だった。

道長は、法華信仰に傾倒したことで知られる人物である。既に寛弘年間(1004~12年)には、宇佐神宮の西参道の北側に、藤原道長・頼道父子によって新伽藍が建設されていた。これが喜多院内法華堂と同常行堂であるが、もちろん元命が関与していた。続いて元命は、石清水八幡宮の宝塔院の建立を始める。これは、弥勒寺の西宝塔院に対して東宝塔院と言われている。王城の境界と国家のそれを、セットになった宝塔院が護るのである。

これらは、天台宗の中心思想である法華一乗思想と八幡護国思想との結合であり、宇佐神宮と石清水八幡宮との合体の思想的背景とみられている。飯沼教授は、弥勒寺跡でこのように力説された。天台宗の延暦寺と、八幡信仰の石清水八幡宮と宇佐神宮が結合することで、新たな歴史段階の国家を鎮護しようとしたのである。

中央での摂関政治の全盛期が、ここ九州豊前に鎮座する宇佐神宮の繁栄期にあたることに思いを致し、道長の政治家としてのスケールの大きさを実感した一日だった。それにしても、古代から中世にかけての九州の歴史は雄大である。

文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。

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