平安朝の時代にかの清少納言も言及するなど、京の都にもその存在が知られていた海女。志摩半島には今も多くの海女が豊かな海の幸を求めて海に潜っています。

歴史作家・安部龍太郎氏による好評連載「謎解き歴史紀行~半島をゆく」。『サライ.jp』では本誌と連動した歴史解説編を、歴史学者・藤田達生先生(三重大学教授)がお届けしています。今回は、志摩の海を自在に操る海女の存在に迫ります。

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↑「御食国」の象徴である鳥羽城跡。三の丸石垣は一見の価値はある。

答志島和具の町並み見学は、雨中行軍だった。民家が寄り添うように軒を並べ屋敷地を分かつ塀などない風景は、古い漁師町ならではの特徴である。珍しいサザエの殻のような渦巻き状の町並みは、隣家の庭を通って出入りするようになっている。

そこからは、プライバシーよりも共同を尊ぶアマ―海女・(男のアマ)―の伝統を感じずにはいられなかった。火事など起こしたら、町全体が焼失してしまいかねないのである。アマ同士の篤い信頼関係が、ここではすべての前提なのだ。

見学に一区切りを付けて、「ロンク食堂」で昼食をとることなった。ここには、周辺の民家と完全に溶け込んだ落ち着きがあった。昼は定食屋、夕刻からは飲み屋に早変わりする庶民の店である。愛想の良い女将さんから興味深い当世海女事情をうかがう。

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↑答志島の「ロンク食堂」。鰆のタタキなど刺身が絶品。昼から酒がほしくなるが、じっと我慢。

残念なことに、海女の人口は激減しているそうである。答志島も今では100人ほどになってしまったという。しかし一昨年に放映されたNHK朝の連ドラ「あまちゃん」で海女がブームとなった影響もあるのか、余所からここに嫁いだ若いお嫁さんのなかには海女になってくれる人もいるそうである。ウエットスーツやゴーグルの普及が功を奏しているのだろう。それでも、水深10メートルを潜るのだから、簡単なことではない。

海女の分布は、南は九州から四国、北は能登や岩手県までと広い。素潜りしてアワビ・ウニや海草を磯ノミで捕る。なお韓国済州(チェジュ)島の海女は有名であるが、近年は答志島の海女とも交流があるそうである。

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↑志摩の海を自在に潜る海女。海女のいる海には極上の美味がある。(写真/志摩市観光戦略室)

問題の海女人口であるが、韓国では約1万人、日本では約3000人といわれる。日本の海女の半数を、志摩半島で占めている。ただし最盛時には国内で1万7000人(1956年)いたというから、確かに激減といってよい。答志島では、70歳を超えた現役海女がいるそうである。

■「海女の潜り」を『枕草子』に綴った清少納言

海女は、古代以来連綿と続く伝統的な女性漁師である。女将さんは『万葉集』にも出てくると仰る。さらに遡れば、『魏志倭人伝』にも海女を彷彿とさせる部分がある。素朴な漁法だったから、日本という国家の誕生前から連綿と続いてきたのだろう。

昭和になっても上半身裸で潜っていた地域もあり、暖をとるための海女小屋は必要不可欠だった。今では、かつての海女小屋は整理されて観光施設を兼ねるおしゃれな建物になっている地域も少なくないという。

今回は訪問できなかったが、ミキモト真珠島の施設内には海女の実演ショーが見られる(実演ショーは、こちら)。若い海女さんが伝統の白い磯着を着て笑顔で素潜りを繰り返すのである。10年以上も昔、家族で見学したが、肌寒い早春の時期にもかかわらず、まだ幼かった子供たちに優しく手を振ってくれたことを懐かしく思い出す。

読者諸賢には、真珠養殖と海女というと、まったく関係ないように思われるかもしれない。そうではないのである。長らくの間、海女たちは海底からアコヤ貝を採り、核を入れて再び海中に戻す作業にいそしんだ。赤潮や台風の時は、海女がアコヤ貝の避難作業を担当したのである。養殖技術が発達し、今では海女の必要はなくなったが、真珠と海女は切っても切れない関係にあったのだ。

ここで、千年も昔の平安時代を代表する女流作家・清少納言の『枕草子』には海女に関する部分(286段の後半)があるので、現代語訳して紹介しよう。

<海はやはり非常に恐ろしいと思うのに、まして海女が獲物を捕ろうと潜っていくのは、見るだけでも辛い仕事だ。腰についている縄がもし切れでもしたら、どうするつもりなのだろう。

せめて男がそれをするのなら、まだしもだろうが、女は、やはり並大抵の覚悟ではあるまい。それなのに舟に男は乗って、歌などをうたったりして、この栲縄(海女の腰につけた縄)を海に浮べて漕ぎまわる。危険を感じたり、不安になったりしないのだろうか。

海女のほうも海面に浮かびあがろうとして、その合図にその縄を引くとかいうことだ。(合図を受けた男が)あわてて縄をたぐり入れる様子なのは当然のことだ。

あがって来た海女が舟端につかまって吐き出した息などは、本当にただ見ているだけの人でさえも、(辛そうで)涙が流れるのに、女を海に落とし込んで、あちこち漕ぎまわる男は、いったいどういうつもりなのかと、目もくらむほど、あきれかえってしまうのだ。

(小学館 新編日本古典文学全集18『枕草子』参照)>

当代を代表するインテリ女史・清少納言らしい見方で、なかなかおもしろい。現代人の感覚にも十分に通じる部分が少なくないであろう。ここに記されている漁法は、夫婦で漁を行う「夫婦海女」とよばれるものである。それにしても、実際に現場を見たような書きぶりである。

■海産物に支えられた鳥羽藩の財政

現在に続くこの漁法は、夫が命綱を担当し妻が潜水する。今は効率のために、潜水する際に分銅と呼ばれる錘の付いた綱を潜り手が持ち、その落下により急速に潜る。また反対に、上がる際にもこの綱をもち、夫が綱を引き上げる。この作業のために滑車を備える船があるそうだ。浮上を補助されれば自力で浮上する場合と比較し、短時間で多くの潜水回数をこなしたり、深い場所に潜ることができるという。

海女の1回の潜水時間は約50秒程度で、これを長時間繰り返すのだから相当の重労働である。分銅や滑車の使用は、少しでも楽に効果を上げるための工夫である。ただ乱獲につながるため、答志島の場合は操業時間を漁協が管理しているという。

清少納言は、命を懸けた妻の辛い仕事と鼻歌交じりの夫の気楽さを対比して、男たちを厳しく糾弾している。後段の「舟端につかまって吐き出した息」であるが、浮上した海人が呼吸を整えるときに一度に息を吐き出すため、「ヒュー」という口笛に似た独特の音を出すことをさしている。これを磯笛と呼ぶ。

確かに、志摩の海女はよく働くと聞く。漁業のみではない、時間のある時は畑仕事にも精を出すのである。もちろん、男性も船の操縦のみならず海士として潜ることもあり、漁具の補修や漁場の管理などにも貢献している。冒頭でふれた和具の町並みは、自立した海女・海士夫婦たちが共同体として漁場を守り伝えるために営んできた証でもある。

おそらく、江戸時代には海女は今よりも桁違いに多かったに違いない。伊勢エビ・アワビ・サザエなど、豊かな天然資源に支えられた志摩半島の海女たちは裕福だった。飛躍するようだが、これは日本を代表する海城鳥羽城を築いた九鬼氏が加増されても5万6000石だったことと関係するのではないか、と筆者はみている。

その後の藩主も、内藤家3万5000石→土井家7万石→松平(大給)家6万石→板倉家5万石→松平(戸田)家7万石→稲垣家3万石という変遷を辿り、大藩が置かれることはなかった。しかし、石高すなわち米穀の収納高のみで鳥羽藩の懐具合はわからないのである。

大規模城郭・鳥羽城を築城・維持しえたのは、志摩半島の豊かな海の幸だったことは言うまでもないだろう。前回、鳥羽城を「錦の城」と呼んだいわれとして、陸側からは重厚な純白の漆喰仕上げ、海側からは魚に刺激を与えないため黒色に仕上げていたことを記した。海産物の保護を意識した先進的な海城は、まさしくそのシンボルだったといえよう。

 

今回は訪れることができなかったが、志摩にお越しの皆さんにはぜひ「海の博物館」を訪ねていただきたい。ここでは人間と海との悠久の歴史と民俗について、さまざまな視点から調査・研究・展示・社会教育活動をおこなっている。特に、漁船や海女に関する展示は圧巻である。また筆者の奉職する三重大学では、「海女研究会」が活動していることも申し添えたい。

文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。

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