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旅行

フランス・ボルドー:世界でもっとも幸福な大会【旅ラン2】(角田光代の旅行コラム 第6回)

夕刊サライは本誌では読めないプレミアムエッセイを、月~金の毎夕17:00に更新しています。木曜日は「旅行」をテーマに、角田光代さんが執筆します。

文・写真/角田光代(作家)

ワイン好きならだれしもが耳にしたことのあるマラソン大会がある。それはフランスのメドックマラソン、通称ワインマラソン。給水所で水を飲むように、ワインを飲みながら走る大会だ。私も幾度か聞いたことがあったけれど、酔狂な大会があるものだと思う程度で、さほど興味を持たなかった。

けれども自分が走るようになり、大会も幾度か出るようになると、だんだん気になってくる。ワインを飲みながら走るってどんなふうに? 倒れたりしないのか? なんだかちょっと行ってみたい……。

そして2015年9月、3泊5日という超のつく弾丸日程で、メドックマラソン大会に出ることにした。いざ出るとなって調べてみると、知らないことがたくさんあった。この大会には毎年異なるテーマがあり、出場者はそのテーマにそった仮装をするらしい。そして英文の健康診断書の提出が義務づけられている、というのもはじめて知った。

大会前日、受付の会場では、ビールやワインの出店が出ていて、すでに多くの人が飲みはじめています。

2015年の大会テーマは「正装」。私は走るのが得意なランナーではないので、重いもの、暑いもの、動きにくいものを着るのはまず無理だ。やむなく法被とちょんまげカツラを用意してメドックに向かった。

大会当日、まだ暗いうちにホテルを出てスタート地点であるポイヤック村に向かう。明るくなってくると、周囲の異様さがわかってくる。大勢の人でごった返し、みなただ歩いたり、道ばたでストレッチをしたり、道路沿いのカフェで朝ごはんを食べたりしているが、全員仮装姿。タキシードもいる、ウェディングドレスもいる、民族衣装の大群もいる、スパイダーマンもマリオもピエロもいる。みんな笑顔。知らないもの同士いっしょに写真を撮ったり、歌い出したりしている。

そしてスタート。スタートから2kmの地点で朝ごはんが配られている。メドック名物のカヌレやクロワッサンがふるまわれている。3km地点で早くも給水所ならぬ給ワイン所がある。驚いたのは、プラスチックのコップではなく、きちんとしたワイングラスで赤ワインが提供されていることだ。

その後も次々と給ワイン所がある。各シャトーが敷地を開放し、テーブルを用意してワイングラスを並べているのだ。生バンドが演奏しているシャトーがあったり、シャトーのスタッフらしき人たちのロックバンドがあったり、シャトーも様々だ。

ここで配っているのは、ワインでなく水。クッキー、焼き菓子、ポテトチップスなど、フードは豪華。配っている人もみんな笑顔。

最初から飲んでいたらどこかでぶっ倒れるだろうと思った私は、20km地点まで飲むのを我慢して走った。20kmを過ぎて最初の給ワイン所は、広大な敷地のシャトーだった。門をくぐると美しい緑の芝が広がり、遠くに、真っ白いクロスを敷いたテーブルが並び、その上には無数のグラスワインが日射しを受けて光っている。白昼夢のごとき光景だ。やっと飲める。

テーブルに近づくと蝶ネクタイのギャルソンが赤ワインのたっぷり入ったグラスを手渡してくれる。隣にいたランナーが満面の笑みで私のグラスにグラスを合わせる。あちこちでドレス姿が、ペプシマンが、海賊が、にこにこ顔でワインを飲んでいる。目が合えばみんな笑顔で、ワイングラスを持ち上げる。なんて幸福な光景なんだろう!

ようやく飲んだ、1杯目のワイン。かんぱーい!

しかし道はつらかった。シャトーの周囲に広がるのはワイン畑。道は砂利敷きで狭く、しかもアップダウンが多い。男ばかりか女まで、じつに多くの人がぶどう畑に入っていって用を足している。ぶどう畑が彼方まで広がり、遠くにまさに城のような建物が見える光景は、童話に登場するように美しいのだが、とにかくつらい。とぼとぼ歩いていると、後ろから来たランナーが「アレー!」と肩を叩いて励ましていく。みんななんて元気なのだろう。私より飲んでいるのに。

35kmを過ぎたあたりで、牡蠣が配られる。ひとりで3個も4個も食べても大丈夫なくらいの大量な牡蠣だ。このポイントだけ、ワインは白。この牡蠣が前菜なのである。40kmを過ぎるとメインのステーキが登場し、みんな群がって食べている。切り分けられた肉を手づかみで食べるのだが、このステーキの塩気がちょうどよくておいしい。さらにその先ではデザートのぶどうが配られ、ようやくあと1kmだ……というところで、アイスバーが配られていた。雨もいつの間にかやんでいる。

これが前菜の牡蠣。山盛りの皿が、じゃんじゃん、じゃんじゃん運ばれてきます。

それにしてもスタートからゴールまで、どんな光景を切り取っても、仮装姿の大人たちは笑顔、笑顔で、なんと幸福な大会なんだろうと感動する。

翌日、帰国するための空港で、無料新聞を手に取ると、昨日のマラソンの様子が4ページくらい写真入りで特集されていた。ワイン畑を走る様々に奇天烈な格好のいい大人たち……あんなに感動したのに、写真を見れば、すごく変だという感想しかもてなかった。

コースであるシャトーにずらずら入るランナーたち。うしろ姿を見ても、やっぱり変(写真はすべて2015年9月撮影)。

文・写真/角田光代(かくた・みつよ)
昭和42年、神奈川県生まれ。作家。平成2年、『幸福な遊戯』で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。近著に『私はあなたの記憶の中に』(小学館刊)など。

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